お茶しようぜ

"お茶しようぜ"

 

2017年から2018年にかけて、

おそらく最も発した言葉だ。

僕には沢山のティーフレンドがいる。

酒の場よりも、より慎重に、丁寧に、緻密に

きちんと発する言葉を選んで、

やり取りが出来る為、僕は人をよくお茶に誘う。

とりわけその中でも、

圧倒的登場回数を誇るティーフレンドが2人いる。

彼らは僕と同い年で、同じ業界に属しており、仕事仲間であり、良きライバルであり、それ以上に良き友である。

 

この日記を彼らの上司が見ている(と思う)為、変な事は書けないが(そもそも変な事なんてないのだが)、たまに同じエリアに営業に赴いていた際、情報交換も含めて、お茶をしていた。

代々木上原のサボウルが行きつけであった。

サボる場所がサボウル、、、

歳を重ねるにつれ、この手の親父ギャグを好むようになってしまった。

僕らの業界はかなり狭い業界であり、

かつ若手が殆どいない業界であって、

同い年が3人も集まる事などまず無い。

各々に営業スタイルも違えば、

好きな生地、もちろん女性の好みも合わない。

そして、おそらく自分が1番売れると3人ともが思っているはずだ。

少なくても僕はそう思っている、

彼等に負ける訳にはいかないのだ。

 

彼らとの出会いは確か、

2年前の冬であったか。

東京の兄と呼んで慕っている僕の先輩の会社に入ったのが、タロちゃんである。

後にプライベートでも共通の知り合いが

何人かいることが分かり、

すぐに仲良くなった。

彼は全てにおいてストライクゾーンが広い。

詳しく述べることは控えたいと思う。

 

そのタロちゃんに紹介して貰ったのが、

ミカワである。

渋谷の焼き鳥屋で初めて会った彼は、

人見知りで、打ち解けるのに半年くらい掛かった。

後に2人で何度もプリントの仕事を手掛けることになる。

3人の中で1番生地が好きで、

自費で産地を駆け回る様な変なやつだ。

 

約2年弱程、僕らは同じ業界で

時には協力して仕事をしたり、

時にはコンペジターとして戦ったりもした。

この3人がいれば、絶対的な売り上げを持つ洋服のことなんて全く興味のないおじさん達にも勝てる気がしていた。

狭い業界故、

少し噂になったりもしていた位だった。

そんな中で、

先陣を切って僕が抜けてしまい、

昔の教育番組にあったズッコケ三人組的な

僕らは呆気なく解散してしまった。

 

僕の壮行会では、

彼等は次の日も仕事であったのに(もちろん僕もであるが)、

朝まで付き合ってくれた。

あれ、これ言っていいんだっけ。

 

社会人になって、損得勘定、掛け値無しの

友人関係を築けるとは思っていなかった(元より僕は腹黒いので見定めてしまう傾向にある)為、僕は嬉しかった。

 

 

先々週末から、

ミカワがこちらに訪れて来てくれていた。

テキスタイルの展示会をメインに、資料館を回り、営業に同行してもらった。

 

仕事はさておき、

久しぶりに近況を教えあったり、

日本のアパレルはこうで、

生地がああだ、

それに比べて欧米はかくかくだ、などと

ひたすらに話し合った。

因みに今となっては何を話したか全く覚えていない。

それに加え、

カワには数年ぶりに恋人が出来ており、

ボランティア精神旺盛な彼は、

全く聞いてもいないのに

いろんな話を聞かせてくれた。

彼が寝てる間に何度か濡れたタオルを顔においてやろうかと考えた。

 

タロちゃんも来られたら良かったのに、と思う。

さぞかし酷い出張になっただろう。

 

また安い居酒屋で朝まで飲んで、

各々が納期や不良品で苦しんでいるのを横目に

売り上げの自慢をしたり、

巷の女子にも負けない量と質で、

恋愛話をしたいなと思う。

 

互いに手掛けた生地の洋服を

展示会で付け合ったりしたいなと思う。

 

飲みの場で女の子相手に

一斉に生地の話をし始めて

引かれたいなと思う。(いや、思わない、あれは酷かった。)

 

幡ヶ谷のパドラーズで、

代々木のトムズで、

渋谷のローステッドで、

上原のサボウルで、

時にはセブンの100円コーヒーで

 

 

またいつかお茶しようぜ。

 

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“side by side  どこまでも行こう

side by side 気が変わるまで

till no side 取り憑かれたもの同士で

俺は右折 お前は左折

さよなら 寂しくなるぜ side by side “

 

side by side/ペトロール

 

 

パリ退屈日記

この日記はしっかり書きたいと思う。

 

当時大学四年生であった僕は、第一志望の最終面接を受けるべく、

前日の夜から大阪に向かっていた。

着いた途端に具合が悪くなった。

理由は明快で、大阪が合わないのだ。

もちろん面接への緊張があったことは認める。

しかし、大阪に着くといつもこうなるのである。

空気が膨張して胸の辺りを締め付けるような圧迫感と、

理由のよくわからない焦燥感に駆られる。

結局僕は、この会社に入る事を選ばなかった。

 

確か小学四年生の頃であった。

祖母と母、僕の三人で大阪に遊びに行った事があった。

そこで僕が見たものは、道頓堀あたりにたむろっている浮浪者や、

険しい顔をして駆けていく赤いピールを履いた若い女性、

威圧的に話す(そう聞こえただけだが)タクシーの運転手だった。

また、テーマパークのチューブ型のジェットコースターだった。

当時の僕にはこのジェットコースターに乗ってしまえば、

2度と出られないような気がしたのだ。

僕の祖母は浮浪者等を見ると五千円くらいあげてしまう人だった為、

たくさんの浮浪者を見て居た堪れない顔していた。

祖母の不安げな顔を見た僕は、

水の中に暗い緑色の絵の具を垂らしたように、

あっさりと同調していった。

その直後に僕らはうどん屋に入って、

僕はきつねうどんを頼んだ。

3分で茹で上がる簡易の麺に、油揚げと1片のかまぼこが

質素に乗っていた事を覚えている。

 

 

その後僕らは予定していた飛行機で帰る事が出来なくなった。

理由が思い出せないのだが、飛行機の欠航か何かだったと思う。

その夜はビジネスホテルに泊まる事になるのだが、

慣れない土地で動揺していた僕は、悪い夢を見てうなされていた。

アニメのコナンの夢を見ていたのだが(なぜここまで覚えているのか僕にもよく分からない)、要するに人が死ぬ夢を見ていたのだ。

その夜、自宅で待つ父に電話をした事もよく覚えている。

今考えると、大阪へのある種の拒否反応はこの時から始まっていたのだと思う。

 

仕事でも何度か大阪は訪れているのだが、

毎回、他の出張先に比べてもかなり疲弊してしまうし、気が立ってしまう。

大阪が大阪である事を自覚していて、その他のものをピンセットで

しっかりと分別しているのだと思う。

僕はそのつままれている感覚をどうしても感じてしまうのだ。

 

今回の訪問でパリは3度目となる。

3回とも同様に前述した大阪に行った際の心持ちになってしまった。

パリもパリで自身がパリである事をはっきりと自覚していて、

やはり僕はつままれてしまう。

肌に合っていないのだなと思う。

今回訪れた国でいうと、ベルリンにはその感じを覚えなかった。

 

 

今回パリでは、世界で一番大きい生地の展示会に行った。

今回の出張的な旅行の最大の目的である。

仕事の詳しいことは述べてもつまらないので割愛するが、

はっきりと今僕がやってゆこうとしている事が、

いかに難しくて、どれだけ僕が小さいのかを自覚する事が出来た。

作る物や仕事の質については、全く問題視していない。

そうではなくて、多すぎるのだ。

服が世の中に多すぎる事は見ての通りだが、

その供給過多の洋服よりも生地がありふれているのだ。

よく考えてみれば、それはそのはずである。

洋服は生地がなかれば作る事が出来ない訳であるから。

そんな中で、僕一人が海外に飛び込んで、

何かできる事があるのだろうかと感じた。

多分何もないと思う。

悲観的になっている訳ではなく、

あくまで客観的に観てだ。

 

次の日(今日であるが)、マレ地区と呼ばれる

セレクトショップやブランドのお店が集まったいわゆる

おしゃれ(好きな言葉ではない)な場所を回った。

そこで、僕が好きなブランドの服を見た。

別に日本でも見られるブランドなのだが、

妙に今日はそれらを見て興奮した。

どうしても絶対に彼らに生地を使って貰いたいと思う。

僕は彼らの作る服が好きだ。

僕に何ができる訳でもないけれど、

その気持ちがあったなと思い出した。

おそらくこれだけは他の人よりも強いと思う。

久しぶりに初心のようなものを感じ、

昨日ボコボコにされた反動もあって、

今僕は、攻撃的な感情を持ち合わせたやる気に溢れている。

 

そして今回の旅行で思った事は、

ロンドンの次がもしあるとするならば、

ベルリンに住みたいという事だ。

感覚的なものなので説明できないが、

間違いなくいい街だと思う。

ここでは鋭利な意志を良くも悪くも感じる事が出来た。

だけれど、おそらく、なぜだか、

僕の意志とは全く別の物の働きかけによって、

パリに住む事になりそうな予感も今回の出張で感じた。

初めの方から日記を読んでくれている人なら分かる(はずの)

”抗えない大きな流れ”の一つとして。

 

 

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”夢にまでみたフランス 凱旋門をくぐって 巴里

目指すはモンマルトル パリジャンと待ち合わせ

 

冷めたブレンド尻目に カフェラテの泡にうずもれて

いつ別れを切り出そうか 煙草で占ってた

 

206番来たから とりあえず後ろに座った

バス巴里まで飛んでゆけ ラララ シャンゼリゼ

 

京都の大学生/くるり

 

 

 

 

アムステルダム退屈日記

ノラジョーンズやキャットパワーが似合う街だったように思う。

機内から望む夕日のせいか。

 

実質1日しか滞在しなかった

アムステルダムであるが、

何故か哀愁を感じずにはいられなかった。

当時勤めていた花屋の店長の兄が

アムステルダムに住んでいると

聞いた位にしか僕の人生で関わりのない街で

あるはずなのに。

基本的にノスタルジックに浸る事を

好む傾向にあるので、

きっとそのせいであろう。

 

ただ、アムステルダムに住みたい

なんて思っていた事もあったのは事実で、

実際に赴いてみて、

そうは思えなかった事に

少し悲しんでいるのかもしれない。

クラスでそこそこに仲の良かった友人が

転校していく感覚に似ているなと思う。

僕の生活に何も影響は与えないが、

でも確かに僕の下から何か決定的なものが

除外されたのだ。

 

アムステルダムでの目的は

テキスタイルミュージアムに行く事だった。

ここには織機や研究所が併設されており、

実際に生地を生産している。

オランダの繊維業は日本同様に、

縮小に向かっており、

潰れた工場の職人たちを再雇用している。

日本に優る技術は正直全くなかったが、

それでも色、柄の表現、展示方法など

アウトルックの面では非常に参考になった。

 

昨日の午後にアムステルダム入り、

駒込六義園ほどの大きさ(感覚的に)の街を散策した。立ち寄った国立美術館では、

色、タッチ共に力強い作品を観た。

あまり僕の好みではなかった為、

作家の名前も覚えていない。

 

オランダにどんな料理があるかも

よくわかっていなかったので、

宿場近くのレストランで

適当に済ませた。

昼過ぎのまるい空気感のある街が、

夜になると大麻が合法であるせいか、

ぬるい空気感に微妙に変化する。

どちらにせよ、

確信的なものに欠ける雰囲気だった。

 

そして今僕はパリに向かっている。

今回の出張的な旅行、旅行的な出張の

最大の目的地である。

あまり得意な街ではないが、

僕の仕事、そして僕自身にとって

大きなものの1つが動き出したり、

或いは絶対的に取り返せないものに

何かが変わって行く様な気がしている。

 

パリでは友人の実家に泊めてもらうのだが、

彼女は今ロンドンにいる為、

彼女の父が出迎えてくれる手筈になっている。

しっかり言えるだろうか、

"コモタレブゥ~"

 

 

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"思い違いは空の彼方  さよならだけの人生か

ほんの少しの未来は  見えたのにさよならなんだ

例えば緩い幸せが  だらっと続いたとする

きっと悪い種が芽を出して  さよならなんだ"

 

 

ソラニン/ASIAN KUNG-FU GENERATION

ベルリン退屈日記

只今、ベルリン上空、

アムステルダムに向かっているところだ。

両耳にはめたイヤホンからは

美空のひばりの姉さんの

『人生一路』が流れている。

一度決めたら、2度とは変えぬ、と来たもんだ。

 

34日、実働2日のベルリンを

終えた感想としては、

『ベルリンめっちゃ良い、、。』

であった。

仕事の要件もそこそこに、

自分には土日だしと言い聞かせ、

観光に時間を割いた。

まず着いた瞬間から、

イギリスでは感じられない雰囲気があり、

その原因は建物の外観と、

連なる店舗のフォントにあった。

ヴィクトリア様式の建物、

タイムズニューロマンに代表されるような

いかにも英国というような字体に対し、

ベルリンではヒトラー時代に

ヴィクトリア建築が取り壊され(確か。)

簡素化されており、

味も素っ気もない建物が連なる。

フォントもヘルヴェチカと

インパクトの間のような

(きっと名前があるのだろう)

こちらもやはり簡素な仕上がりになっていた。

完全に僕好みである。

 

重工業で栄えた

"いかにもドイツ"というような

重厚な煉瓦造りの建物もまだ残っているが、

一方で、バウハウスの影響を受けている

家具や照明、建物も伺うことが出来た。

機能的で、華美な装飾がなく、

柳宗理が言うところの'野球のボール(頭痛が痛いの様な響きである。)や、ピッケルの様な

機能美を備えたものが随所に見受けられるのだ。

ドイツといえばブラウン社、ディーターラムスという感覚があったのだが、本国ドイツでは全く見なかった。

おそらくこちらでも電気シェーバー位しか扱っていないのであろう。

ハーマンミラーイームズを腐らせた様に。

 

昨日はそのバウハウスに行ったのだが、

行きの電車で今回一緒に回っている"ミカワ"が、

切符のスタンプの押し忘れで(そういうルールがあるのだ)

60ユーロの罰金を取られた。

仕事では非常に心強い仲間なのだが、

この時のミカワは完全にビビっていた、

そして御立腹のご様子であった。

そんな彼を横目に僕はバウハウス

しっかり楽しめた。

着いた時間もあり、

全ては回りきれなかったのだが

メインどころのクラブチェアB3や、

Marianne Brandt のランプや、

マスターズハウスは見ることが出来た。

もちろんバウハウスは文献も関連書籍も

かなりの量が出ている為、日本に居ながら

大体を把握する事は可能だが、

それよりも、黒い権力争いや、

男尊女卑的観念からの脱却など、

当時の歴史的背景をバウハウスの中からも

垣間見えた点が、足を運んだ甲斐があった点であろう。

 

ベルリンといえばクラブシーンも有名だが、

今回はタイミングが悪く、ベルクハインも、

トレジャーも行けずじまいで終わってしまったのが心残りである。

 

ドイツ料理は殆どが肉とポテト、かパスタであるが、美味かった。

日本のラガーに似ている

ピルスナー系のビールもやはり飲みやすく、物価も安いこともあり、

安心してメニューを伺えた。

 

感覚的にしかもちろん分からないが、

おそらく僕がロンドンの次に住むとすれば、

ベルリンな気がした。というか住みたい。

なんて言いながら、

次のアムステルダム

素敵だったりして。

 

*ロンドン在住日本人が3万人に対して、

ベルリンは3700人だそうだ。

 

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Is as little design as possible – Less, but better –

ディーターラムス良いデザインの10か条より

 

 

ロンドニアム ダブルベッド

一体、一生のうちに

何個のベットに寝るのだろう。

思い返してみれば、

中学に上がる際に祖父に買ってもらった

シングルベッドに皮切りに、

クッションがたくさん置いてあるベッドや、

下に収納の付いているベッド、

製造過程で不備があったとしか

思えないような底なしに沈むベッド、

糊の効きすぎたリネンに、

シングルサイズ以下の幅しかないベッド。

人生の3分の1をもベッドで過ごす僕(ら)は

彼らと分かり合える日が来るのだろうか。

人の家に泊まった翌日の朝の、

結局彼らと分かり合えなかった、

あのなんともいえない気だるさを思い出す。


今僕はダブルサイズのベッドから起きたばかりで、

二つ配置された枕は各々硬さが違うが、

いずれにせよどちらも柔らかすぎる。

ドアの反対側の壁に配された窓からは、

朝日とも夕日とも取れるどっち付かずの空が伺える。

僕が1日で1番好きな瞬間である。朝の7時だ。

起きてまず、洗面台に向かい、日本のそれよりも性能のいいシャワーで頭を濡らす。

ポイントはここで顔も洗ってしまうことだ。

5色使いの発色のいいビーチブランケット位はあるバスタオルで頭を拭く。

日本から持ち込んだ使い慣れた歯磨き粉を、

これまた使い慣れた歯ブラシに大豆2個分くらいを載せる。

右上奥歯から磨き始める。

それを終えたら、椿油を少々左手に取って、

濡れたままの髪に馴染ませる。

普遍的なセンター分けに髪を撫でつける。

パジャマを脱ぎ、即興で決めた服に着替える。

Tシャツをめくり、香水を3回振りかける。

靴の色に合わせて腕時計を選ぶ。

読みかけの文庫本を持っていくかどうか迷い、

重くなるから思い、置いていく。(後に電車の中で後悔する。)

二重鍵のドアをゆっくりと開けて、ゆっくりと閉める。

エレベーターに乗り込み、0階を押す。

右手に見える朝日を横目に、

少し大きめの歩幅を意識しながら、

8分程かけて駅へ向かう。


明日から1週間ほどかけて、

合わせて3つのベッドに寝ることになる。

行き先は、ベルリン、アムステルダム、パリ。

仕事7割、遊び3割とどっち付かずの旅だ。

大体にして、

いつも僕はどっち付かずである。

どの都市のベッドと分かり合え、

どの都市のベッドと仲違いするだろうか。


朝日を見出す事は出来るのだろうか。


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"目覚めはなぜか悲しいほど爽やかで

着替え始めた君は忙しそうで

ベッドの中から好きだよって囁く"


床には君のカーディガン/THE SALOVERS



英国退屈日記:新聞


"こと未だ成らず小心翼々
こと将にならんとす大胆不敵"

何かを始めるときは周到に調べ上げ、
大成しても油断することなかれといった意味の西郷隆盛の言葉だ。

見切発車を1番の得意技としている僕としては耳の痛い言葉である。

会津藩擁する福島県民としては、
左翼の西郷隆盛なんぞ!
と思われがちであるが、
あくまでそれは会津界隈の人間だけであって、中通り(僕が生まれた地域を指す)、いわきの人間からすると全くどうでも良い話である。
僕が学生時代に習ったメダカすら住めない水溜りの様に浅い日本史によると、会津を除いて他の福島県民は反幕府側だったと言われている。

導入が長い文章ほど面白くないものはないので、このくらいにしておくが、今日は新聞についての退屈だ。

はやりこちらの新聞にも、右左翼がある。
新聞は主にタブロイド、ブロードシーツの2種類に分かれていて、これらの定義は用いる紙のサイズで分類されている。
タブロイド紙では、サンやミラー、メトロが代表的で、ブロードシーツでは、ガーディアンあたりが大手である。
サンとガーディアンは左翼、メトロが中立、
ミラーとが右翼である。
日本の週刊誌(こちらではガータープレスと呼ぶ)と同様、
基本的には左翼側の新聞は
ゴシップ系のネタも取り上げるため、
基本的には街中で読んでいる人は見かけない。
日本だと喫茶店なんかでは、
3日に5回くらいの頻度で着ているであろう
褪せた色のセーターを着た中年男性は
大体週刊誌を読んでいるものだが、
こちらイギリスでは未だに階級社会があるために見かけないのだ。
育ちや家柄、話す言葉はもちろん、
どの紙面を脇に抱えているかでも
階級を判断されてしまうためだ。
僕らがイメージするイギリスの、
田園都市的思想に基づいた生活は、
あくまで中間上流階級以上の話であって、
数パーセントしかいないだろう。
話を聞く人聞く人、階級制度なんて
ナンセンスだという。
しかし今だにそれから脱却できず、
根強く残ってしまっている為、
古豪の国に留まっているのだ。
もちろんそのおかげで、
ネクタイはウィンザーノットだとか、
靴は黒のオックスフォードキャップトウだとか、ウォッチポケットが付いたサイドベンツのジャケットだとか"ポッシュ"で"洗練"された拘り(皮肉と尊敬を込めて)が生まれている。
一方で我らがトレインスポッティングに象徴されるような下級層の文化や、パンクやモッズが生まれているのも事実である。
ただ、パリなんかに比べると
どこか垢抜けない感じがするのは
この階級社会の影響があるのではないかと感じている。


せっかく右左の話になったので、
道路の話をしようと思う。
イギリスは日本と同様左車線の国だが、
キースはこれを”collect way(正しい道)”と呼ぶ。
右車線の国々に対しての皮肉を込めて
そう呼んでいるのだが、
遡ること"まだ道に左右の区別がなかった世紀"(キースもいつだかは知らないらしい)、
もう既に人々は道の左を歩いていたらしい。
その時代の交通手段は馬であり、
騎士は常に武器を備えている。
左に鞘があり、右手で剣を振る。
もし道で敵に出くわした際、
自分の左側にいる相手には
剣が届かなくなってしまうのだ。
その為自然と人々は道の左側を歩くようになったそうだ。


上手いまとめが思いつかないなんて、
考えること5分。
あくまで日記であるのだから、
そんなものは必要ないのだ。


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“話すコトバはとってもポジティヴ
思う脳ミソホントはネガティヴ
バカなヤングはとってもアクティヴ
それを横目で舌打ちひとつ"





英国退屈日記:流し

露店で拵えた様なキャスケットに、

視力を矯正する為だけに掛けている眼鏡。

昼間からはしご酒。

吉田類の酒場放浪記だ。

お馴染みのあの曲は

The KlezmorimのEgyptian Fantasy 

邦名は"エジプトの幻想"という。

妙な組み合わせであるが、これが何故かしっくりくるのだ。

 

いかにも吉田類が好みそうな一本奥にある飲み屋横丁に

軒を連ねる居酒屋を僕らは赤提灯系と呼んでいる。

昔はそんな赤提灯系の居酒屋に”流し”と呼ばれる、

アコースティックギターアコーディオンを片手に

客の好みに合わせて曲を弾く楽師達がいた。

確か僕らの(僕と僕の祖母を指す)北島三郎ことサブちゃんも

”流し”上りだったと思う。

 

川端康成著の”伊豆の踊子”では流しの芸人一座が登場する。

主人公の青年はその旅一座の芸者である踊子に恋をするのだが

その踊子の純粋無垢さに引かれる孤独な主人公の姿に、

僕は強く憧れたことを覚えてる。

 

流しの彼らは僕が酒を飲めるようになった頃には、

シベリアに生息するマナヅルほどの数になってしまっており、

実際にお目にかかった事はない。

 

本や映画、人の話に聞くところ、

いかにも日本らしい風情、趣が感じられるものであって、

もし僕がその場に居合わせることができたなら、

河島英五の”酒と泪と男と女”に始まって、

さだまさしの”精霊流し”も掛けてもらおうなんて妄想している。

吉田拓郎の”結婚しようよ”なんてのもいいなと思う。

渡邉家としてはイルカの”なごり雪”とかぐや姫の”神田川”も外せない。

 

ちなみに海外でも”流し”がいる。今もいる。

僕はパリとロンドンでしか出会ったことがないが、

おそらく他の都市でもいるのであろう。

先日僕が(確か商談帰りか何かであった)電車に乗っていると、

進行方向とは逆の車両から爆音のサンバが聞こえてきた。

割と夜も遅く、僕は疲れていたのでただ活字として認めるだけの読書をしていた。

するとその爆音が徐々に近づいてくるのである。

堪らず顔を上げると僕のすぐ横にラテン系の顔をした男3人が

轟音と共に立っていた。

一人はトランペット、一人は中太鼓、残りの一人は7歳児ほどの大きさの

スピーカーを持っていた。

ラテン系の(残念ながら曲名がわからない)曲が終わったかと思えば、

ビリー・ストレイホーンの”A列車で行こう”を演奏し始めた。

元来ビッグバンド用の曲を3人で挑んだ心意気は認めるが、

トランペットソロと中太鼓によるアレンジ以外は、

そのスピーカーから流れるボリュームを上げすぎた時に起こる、

聞くに耐えない割れた音に全てを委ねていた。

僕の前に座っていた昔はさぞ端正な顔つきであっただろう事が伺える老紳士は

両指でワインのコルクを再度ねじ込むような勢いで耳を塞いでいた。

僕としても疲れていたし、全くを持って愉快な気分にはならなかった。

一通り演奏が済むとトランペット担当が僕の前に立ち、

チップを要求してくる。もちろんあげない。

諦めた様子で、次に老紳士の前に立ちはだかる。もちろんあげない。

その後彼らは次の車両に移り、シナトラの”ニューヨーク・ニューヨーク”を

演奏していた。ロンドンでその選曲をする心意気も認めたいと思う。

ちなみにパリで出会った流しは家庭用の持ち運びが出来るカラオケ機を

列車内に持ち込み、DAMの採点では点数も付かないような酷い歌声を披露していた。

何かの罰ゲームであったに違いない。

 

最後に折角サブちゃんが登場したので思い出話をひとつ。

まだ僕が小学校に上がるか上がらないかくらいだったと思うのだが、

今はなき、新宿コマ劇場に毎年祖母と母とでサブちゃんのコンサートを

見に行っていた。(僕はポケモンセンターを餌に連れ出されていた。)

サブちゃんは決まって最後に龍やら七福神(だったと思う)が乗っている宝船に乗って登場する。歌う曲はもちろん”まつり”である。

その龍の鼻の穴が異様に大きく、(念のため、サブちゃんは鼻の穴が大きい事で有名)

漆黒のブラックホールが2つ横並びで今にも観客の60年前の女子高生達(僕は巣鴨に住んでからおばあちゃん達をこう呼んでいるのだ)を、今にも飲み込みそうな勢いで鎮座している。そのブラックホールから威勢よくスモークが噴射されるのだがそれを見て”女子高生”達は大喜びしているのだった。

ちなみに北島三郎が馬主の”キタサンブラック”はこの逸話から取った馬名だそうだ。

 

もちろん嘘である。

 

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”銭の重さを数えても 帰るあてはない

二百海里をギリギリに 網を掛けていく

海の男にゃヨ 怒涛(なみ)が華になる

北の漁場はヨ 男の死に場所サ”

 

北の漁場/北島三郎