英国退屈日記:拘り

Tシャツはポロの白無地。

靴下はブルックスブラザースのこれまた白無地。

歯ブラシは、かなやブラシの馬毛。

整髪料は大島椿。

香水はLELABOのGAIAC。

トラウザーズはダブルの巾4.5センチ仕上げ。

他にももっとあるが、これらは僕の拘りだ。

書いていて嫌になる。

下らないものだと感じる。

 

二十歳そこそこの時は雁字搦めになる程の拘りがあった。

それでこそ男だろう、なんて思っていた。

 

因みに、イギリス人も傘は差すし、

イングリッシュブレックファーストなんて食べない。

ツイードのコートより、カナダグースである。

僕らが抱く英国らしさなんてものは

遠の昔に消え去っているのだ。

 

拘りといえば、真っ先に思い出すものが

池波正太郎著の『男の作法』である。

天麩羅の食い方やビールの注ぎ方、

金の使い方、死への考え方まで

”男たるもの” を事細かく記しているが、

僕の陳腐なそれとは質が違って、

男としての大局観を具体的に綴ったものだ。

未読の方は是非。

 

話は戻って、何かに固執することは、

自らの見識を狭めてしまうし、

人間としてつまらない物になる。

これに例外は無い。

所謂、職人もそうだ。

初めに断わっておきたいのだが、僕は職人と呼ばれる人達に憧れがある。

これ程格好の良い仕事は無い。

その上での話なのだが、工芸品を含む職人達は、

1つの事に拘りを持ち過ぎたが故に

潰れて行くのである。

環境に順応できない物はやはり淘汰されて然るべきなのだ。

作り出す技術は卓越するものを持っていたとしても、

アウトプットが現代にそぐわなければ、何も作っていないのと同義だ。

何も作る物を変えろ、等と言っている訳ではなく、

アプローチの仕方や、プロモーションを変えてはどうかという事だ。

 

また、別の機会に改めてきちんと話すが、

僕が今携わっている業界にも同じことが言える。

産地が潰れているのだ。

産地を活性化させようと躍起になっている行政もあるのだが、

いざ仕事を振ってみると、

『いやこれはやった事がないから出来ない。』

この調子である。

30年前からやっている事が変わらないのだ。

これでは潰れて当然であるし、いる意味がない。

 

先日、ロンドン在住日本人のドンに会う機会があった。

ドンというのは広義での業界のドンだ。

ロンドン、日本間でのファッション関連で

彼が噛んでいない事の方が少ないのではないだろうか。

ブランドのバイイングから、アテンド、内装、執筆まで

兎に角何でもやっている。

顧客も錚々たる顔ぶれだ。

何をしている人かと聞かれると一言では形容出来ない。

そんなドンがこう言っていた。

『今時、”自分は何屋です。”と言った時点で可能性はないよね。』

彼はそのやり方で成功してきたから、と言うのは勿論あるが

僕も同じように感じている。

餅は餅屋の時代ではないし、

そもそも、その餅屋が無くなっているではないか。

餅をアマゾンから買う時代なのだ。

 

小学生の頃から、僕は何をしても大体上手く出来る。

その代わり何かで1位になることもまず無い。

陸上大会も基本3位、作文も優秀賞まではいく。

器用貧乏というやつだ。

恐らく僕は今後もひとつだけを突き詰める事は出来ないし、

それにそこまで興味はない。

だからこそ興味のある事は何でもやってみたいのだ。

 

 

「拘らない事が拘り」である。

 

 

 

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 ”ドキドキしてんのにやめたかないぜ 何も知らないまま笑ってたいぜ”

 

ザ50回転ズ/さよならヒーロー