英国退屈日記『桜』

記憶があまりない。

3月から今日までの記憶があまりない。

朝に食べるクロワッサンと、

昼のチキンカツ丼、

入浴とは呼べない烏の行水で、

なんとか日々のテンポを保つ生活を送っていた。


元来要領は良い方で、

何かにあくせくする事は無いのだが、

最近は処理しなければいけない情報が

多かった事に加え、

ショートカットキーが使えない事柄ばかりで、四苦八苦であった。

1つのウィンドウを消すために、

閉じるボタンを押すと、

新たな確認用のウィンドウが

4つくらい出現する感覚である。

ただ、僕がそれに陥ると周りは八苦十六苦くらいになってしまう為、なるべく避けたいのである。



硬い水の話や、

ビタミンD欠乏イギリス人の話、

かわいいは正義の話、

謡曲と白ワインの話等を、

書きたいなと思っていたのだが、

中々時間が見つけられなかった。


時間は作るものと、

父がよく言っていた。

また、村上春樹著の"女のいない男たち"に

登場する美容外科の先生の様に、

仕事以外の話を

相手に合わせてきちんと出来る人に

魅力を感じる。

そもそも仕事に追われたく無いタイプの人間である為、出来る事ならば、

4、5時間で仕事を終わらせたいのだが、

今はなかなかそうもいかないみたいである。

四半世紀も生きているのだから、

たまには全力疾走で10キロマラソンを走り抜く事もあるのだろう。

そして僕の場合、それが今なのだと思う。

例え仕事が終わらずとも、

銭湯さえあればもう少し楽になるのだが。


3月の下旬頃からであっただろうか、

ロンドンでは桜が咲き始め、

最近では新緑が桜色の下から、

ちらほら覗き始めている。

染井吉野よりもやや濃いか、浅いかの

色合いをした花を咲かせているからか、

まばらに点在しているからか、

日本のそれとは異なり、

あの独特な高揚感はない。

花見の文化も勿論ない。


ツツジや牡丹、

場所によっては

シャクナゲなんかも見受けられ、

こちらではそれらが一度に開花してしまう事も、

桜の特別感が薄れてしまう理由の1つだろう。


先週サマータイムに入り、

昨日からイースターも始まり、

季節上の冬は終わったのであるが、

春らしい事は何一つせずに、

夏を迎えてしまいそうである。


"季節には敏感にいたいなと思う"

(誰の歌詞であった忘れてしまったし、最近固有名詞を思い出せないお年頃に早くも差し掛かってきた感覚がある。)


そう言えば敏感過ぎて、

春になると学校に行けなくなる時期があった。




花見といえば、お弁当だと思うのだが(それ以上にお酒である事は一先ず置いて欲しい)、

先日友人とお弁当、

特におにぎりの話になった。

自分の親が握ったおにぎり以外、

市販のものを除いて、

食べることが出来ない人がいるという話だ。

彼もこの手の人間であり、

僕もその話は昔にテレビか何かで、

観た記憶があるのだが、

彼等は潔癖症の部類ではなく、

ザコンの部類なのだそうだ。


ラップに包んで握っているとか

そういう問題ではなく、

親以外の他人が作ったということが、

すでに事件なのである。

バレンタインに配られる

トリュフチョコなんて、

人為的災害としか言えないのだ。

遠足でたまに起きる

これまた災害の一つである、

お弁当のおかず交換なんてものは、

断ってしまえば、

善意で交換してくれている友人に、

それ以上に友人の親に対して、

失礼に当たる為、

引き受けない訳にはいかないのであるが、

彼等にとってこれほどの苦行は無い。

敬虔なクリスチャンが踏み絵をさせられる気持ちに似たような感覚なのだ。


何故僕がここまで、

彼等の気持ちが分かるかというと、

実は僕も敬虔な他人のおにぎりダメ人間であるからなのである。



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"向こうを行くのは お春じゃないか

薄情な眼つきで 知らぬ顔

沈丁花を匂わせて 

おやまあ ひとあめくるね"


春らんまん/はっぴいえんど