英国退屈日記『フランス人』

顔と顔を突き合わせて

2時間も3時間も全く実の無い話をしていれば

それは間違いなくフランス人だろう。

鳩が身を竦めてごもごもとするそれに似ている。(断っておくが卑下している訳ではない。)

アクセントに角が無く、

丸い音の紡ぎは僕にそれを連想させる。

 

例えば""を説明する際に、

僕ならナイフを持つ手、

日本人にならば毛筆を持つ手と言う。

勿論、右と左を絶対的に定義する事は

不可能なのだが。

それがフランス人にかかると、

 

"いいかい、まずレストランに行ったとする。

席に着いたらウェイターが

まずなにを持ってくる?

水かい?

いやいや、カトラリーさ。

カトラリーには何がある?

ナイフとかフォークだよね。

そうそう、そのナイフとフォーク

君ならどっちの手に握る?

フォークがこっちの手で、

ナイフがそっちの手だよね、

そのナイフを持っている方が

右ということになる。

ところでこのワインきっとチリ産だな。

飲めたもんじゃあないね。"

 

こういった具合である。

こんなのを例えを変えて永遠とやる訳だ。

 

からしてみるとなんとも

煩わしく思えてしまうのだが、

この余裕と言うべき(か?)ものが、

艶やかさのある言葉を作るのだから

これはこれでいいのであろう。

アートなんかも余裕のない心からは

卑しいものが出来上がるだけであるように。

 

 

やはりパリは古典的で、

比較的新しいものに閉鎖的な感覚を覚える。

パリ然としたあの街並みはこれらの感覚から

守られている賜物な訳であるから、

勿論悪いことではない。

ロンドンや東京の節操の無い建物に比べれば

遥かにいいのだろう。

個人的にはそんな

ロンドン、東京の街が好きなのだが、

パリではファッション業界も同様で、

新進気鋭の若手が一躍スターという事が

あまり無い。

新しいブランドでも少なくとも、

どこかのブランドで経験を積んでから

自分自身のそれを始める。

ロンドンでは新しいものが、

毎年毎年出てくる。

人々もそれを受け入れる者が多い。

明らかに質が伴っていない物も多いのだが。

 

僕ら日本人だと察する文化が、

長けていて一言二言伝えたいことを

そっと置いておけば、

受け手がこれを感じ取るわけだが、

これはこちらの人には通用しない。

言葉の数は丁寧さを意味し、

なるべく多く言葉を並べるほどいい。

 

"こんなことを聞いて申し訳ないのだけれど、

もしそれが可能だったら大変僕は嬉しく思う。ペンを貸して頂けませんか。"

 

まあ少し大げさだが要はこんな具合である。

なかなかけったいである。

 

 

貴方方がどう思うか、

僕には全く知る由もないし、

もしかしたら誰も知らないのかもしれない。

それでも僕は聞かなければならないし、

こんな事を聞いて貴方達が、

どう思うか自信もない。

聞いてしまって何かが

壊れてしまうかも知れない訳で、

しかし恐れながらも僕は言いますね。

 

もし、お気になさらないようであって、

それが可能なのだとしたら、

僕にとってこんなに喜ばしいことは、

他には考えつかないくらい今僕は眠いので、

今日はここまでにしていいですか?

 

 

 

f:id:s396man:20190914164839j:plain



 

 

僕らはそのときそこにあるものを、

あるがままに愛そうと努めるしかない。

そういう前向きな(あるいは諦観的な)

視点を持って眺めれば、

降り続く雨に濡れた五月のポーランドは、

とても美しい国だった。

 

スカイワード9月号/村上春樹