ひっぱり出してきたスウェードのジャケットからは丸い独特の匂いがする。
まさか8月に袖を通す事になるとは思ってもいなかった。まして内にはモヘアのカーディガンを羽織っている。
とりわけ夏に思い入れが強い方では無いのだが、それでもクローゼットを眺めると着る事なく今年を終えた開襟のシャツやマドラス柄のパンツなんかがドレスコードを履き違えた分別の無い観光客みたいにある種の哀れみを含みながらハンガーに吊るされている。
熱いコーヒーを淹れながら無理やりにかける夏の曲もやはりどこか素っ頓狂な聴こえ方をする。
今ぼくは、毎週日曜日に行くフラワーマーケットに向かっているところであるが、それこそ初めはワクワクしながら行ったものの、1年も通うと高揚感というものは無くなっている。
それがいけない事かと言うとそうではなくて、革に付いた水滴が滲みになり、やがて乾いては何もなかったかのように成るように、一時的な存在感が馴染んでは自分のものになっている過程のようなものである。
まさに今年という年は僕にとってこの感覚である。
未体験の事、上手くいかない事やまたは上手くいった事。もどかしい気持ちや気持ちの良い事。消えてなくなったものや新たに生まれ落ちたもの。全てが僕に降ってはシミになりやがて消えていく。
取り留めのないふらついた月々を皆なんとなく黒に塗られた地図を凝視しながら歩いてるような掴み所のない足取りである。
それでも今年の僕は今までと同じように確かに歩いているし、きっとみんなもそうなのである。激流に流されているように見えても、淀みに捕まって動けないように見えても、
確かに僕達の足は動いているのだ。
ロンドンは季節の境目で、
花屋には向日葵とホオズキがよそよそしく並んでいる。戸惑ってしまい上手く花を選べずにこじ付けて買ったアニゴザントスを片手に今週の買い付けを終えた(毎週業務的に行われる一連の流れの為、買い付けという言葉がしっくりくるのだ)。
残りの文を書こうと入ったカフェで粉っぽいパンケーキを齧っている。
こびりつく甘ったるいラズベリーソースを深みのないアメリカンで流し込む。
こういった日々にも僕は日々の流れを確かに感じるし、甘いものが甘いことに確かな歩みを感じることが出来る。
空では雲が早く流れている。(三浦しをんみたいな事を言いたかっただけである。意味はない。そして締まらない。)おわり。
P.S
何度か書こうと思ったグルメ記事だが、
味覚や嗅覚を文章で伝える力量が無い事が分かった為一時延期にしようと思う。
"さよなら遠い空
何故だろう少し優しくなって
悲しみや喜びを 君に伝えに行こう
少しだけかけ出して ああ
さらば遠い夢よ"
秋-さらば遠い夢よ-/エレファントカシマシ