こちらロンドン、17時。快晴。
シチリアのような黄色い太陽も、
貴方のような丸い暖かさもまだないが、
確かに陽の光は長く射し、
人類の不安はどこ吹く風、
静かにしかしながら確実に春を迎え、
夏への歓びを迎え入れようとしている。
もう数える事も諦めたが、
何度かの隔離を終え、
僕の身体もこちらの空気に、硬水に、
四季を感じさせない食品の陳列棚に馴染ませつつある。
日本では六畳半の借間で半年を過ごした。
外苑前の銀杏の落ち葉を踏んで歩いたかと思えば、いつの間にか紅白では紅組が勝ち、
袴姿に身を包んだ新成人の満ち満ちた顔が通り過ぎた。花より団子とは言うが、団子の無い桜も味気がないものだった、そんな春であった。
この間主人が居なかった僕の家には、
時を進めることが出来なかったシーツや、
沈黙を守る棚たち、それらをよそめに伸び続ける植物たち、それらが温水と冷水のちょうど間のような、曖昧な温度を空間に潜め、耳が痛くなるような静けさが僕を迎え入れた。
これが4月1日、僕の日本で言うところの新年度の始まりであった。
伊丹十三は仕事で長期間イギリスへ滞在した際にジャガーを買った。彼に習って言い直せば、ジャギュアである。僕だってせっかくの英国である。日本では買えないもの、もしくは高いものを集めるべきではないのかと思い、日々アンティークの椅子を漁る日々である。今目を付けているのは70年代にIKEAのためにKarin MobringがデザインをしたAmiral chairである。彼なら"チエア"と発音するのだろうか。クロームメタルの外枠に革張りを施した端正なチエアである。
半年という滞在と言えば長すぎて、住んだと言えば短過ぎる期間を日本で過ごし、そんな残り香を感じながら過ごす英国は、何か大きな欠点を見過ごしている様な、それでいて全てが薄い膜で完璧を覆われているようななんとも形容のし難い空気が僕の周りを包んでいる。
要するに何かを思う、という事が薄れているのかも知れない。
不安定ながら自分の住まいを持ち、日々の仕事に追われながらも落ち着いた生活を消費していく中で、以前のように思う事が無くなってきているのかも分からない。あるいはそれらの犠牲の上で今の生活が成りなっているのかもしれない。
血湧き肉躍るような目まぐるしい刺激が捨て去れているのかもしれない。そんなものは初めから無かったのかもしれない。
それでも僕の不揃いな髪の毛は伸び続け、
また明日を迎えようとしている。
感じた事をどうにも処理の仕様が分からなかった10代を経て、ひとつずつ形や言葉にしてきた20代もそろそろ終わりを迎えようとしている。
その先に続く30代はよりリアリスティックなものになるのか、はたまたドラマチックなものが待ち受けているのか。
メトロノームのような安定を求める一方で、入道雲のような危うさを好む僕は果たしてこの先何処にいるのだろうか。
失い続けていく中で研ぎ澄まされていくものがあるような気がしている。
"しっかりとした気持ちでいたい
あああ 自ら選んだ人と友達になって
穏やかじゃなくていい毎日は
あああ 屋根の色は自分で決める
美しいから僕らは"
燦々/カネコアヤノ