凍ったマンゴーと

禊のような歯ブラシを終わらせ、台所へ向かう。

昨夜の憂いを残したウイスキーグラスの匂いに胸を少し詰まらせながら、

乾燥機から洗濯物を取り出し忘れていることを確認する。

そしてそのまま蓋を閉じる。(見なかったことにするのだ、決死の思いで布団を後にした僕にシワだらけのTシャツを畳むだけの勇気はまだ無い)

コーヒーを作るか、スムージーにするか悩みながらセントラルヒーティングのスイッチを捻る。

今日は美術室に残されたデッサンのような味気のないオレンジと、

故郷の熱帯気候への冒涜としか思いようが無いカチコチに凍らせられたマンゴーのスムージーにする。

大体決まって僕が日々悩むことなんてものは朝食かニット帽の色か元気のない観葉植物のことくらいである。

あとは大概すでに決まっている、世界のおおよそ全てがそうであるように漏れる事なく僕の周りに起こることも決まっているのだ。

朝の9時頃から簡素な昼食を挟んでまた夕食までパソコンを打つ。

字を書く時もそうなのだが、指先には力が入りやすいたちで、キーボードを叩いていると指の節々が痛くなる。

それでも打ち続ける、彼らが僕の返事を待っているのだ。

時折家を出て彼らと仕事の話をし、暖房で温められ過ぎたこの家に戻る。

そうしているうちにまた夜がやってくる。

夜といってもいい加減なもので、夏は20時でもまだ夜ではないくせに、

冬になると17時頃から夜になる。夜中の3時とは言うのに、4時は朝方の4時である。

どちらもまだ暗いことに変わりはなく、1日が24時間と決めた割にはどうも適当である。

そんなことを考えながらクラッシュアイスを取り出してウイスキーを注ぐ。

誓いのような歯ブラシを済ませ床に就く。

 

あとはその繰り返し。

 

こうした退屈な1日を365回(たまに366回の時もあるが)行うと僕の1年になる。

英国退屈日記の出来上がりである。

それでもいつの間にはこちらに来て丸3年が経ち4年目に突入した。

ありきたりな話ではあるが変わったことと言えばズボンのインチ(インチもセンチもフィートもヤードもオンスもグラムも大嫌いである、ナポレオンめ。)くらいであろう。

と、個人的には思うのだが実際は目まぐるしくたくさんのものが現れては

同じだけたくさんのものが過ぎ去っていったのだろう。

血が入れ替わるのが分からないのと同じで、

それは僕にも分からないのである。或いは目を瞑っているだけなのかも知れない。

 

 

口は巧い方なのだが、やれ自分のこととなると上手く話せない。

自己紹介も苦手だ。

まず自分話が得意な人間は今の僕もみたいに金曜の22時頃にパソコンに向かって文字は打たないだろう。

日本だとこれでもなんとかなるのだ、挨拶はおはよう、こんにちは、こんばんは、ではホンダイへ。だからである。しかしながらこちらではハローの後に ハウ ハブ ユー ビーンと続く。

この日記を楽しみに待っている英語が出来ない両親の為に日本語訳すると最近どう?となる。

これが実に厄介なのである。

僕が何か最近したことにあなたが興味があると僕には思えないし、

僕自身も最近僕が何をしたかに興味が無いのに、何を話せばいいのか。

 

"今朝は哀れなほどに凍ったマンゴーのスムージーを飲んでさ、家に帰ったらシワシワなTシャツがガンガンに温められた部屋で畳まれるのを待ってるんだぜ!”

 

これでは無い。

 

ただただ僕はこちらの人間のコミュニケーション能力、

いや自分への関心の高さに驚かされるのである。そして時折辟易とするのである。

その上保身も上手で言い訳をさせたら、タイタニックでデカプリオがケイトウィンスレットに出会ってから海の中へ沈むまでの間、喋り通すだろう。

冗談とかウィットに富んだものが通じないこの日記を楽しみにしている両親の為に説明するとこれはとても長い時間言い訳をすらすらし続けるという比喩なのである。

 

そんな人々や退屈日記的時間のすゝめにも慣れた僕はこう見えても楽しくやっている。

この生活が嫌いでは無い。

ただもう少しスムージーの味にバリエーションを付けるか、

自分の気持ちを過不足なく伝えられるようになれれば、

もう少しだけ僕の英国生活はいいものになるのかも知れない。

 

 

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"言葉がなかったら 迷わず抱きしめてたろう  手紙を読み返し 書く手間も省けてたろう

あのとき一瞬だけ抱いた思いを 400字原稿用紙に書き上げたとしても

伝えたいことなんて何一つ書けずに それでも先生は花丸をつけてくれた

言葉にすることで醜くなることも 言葉にしなければ忘れてしまいそうで

言葉がなかったらこんなことで悩まずに全てをぬくもりで

伝えられたのだろうか"

 

 

言葉がなかったら/mono no aware