故人を思い出す時、天国にいる彼らの上には花が降るらしい。
仏壇のりんを鳴らす時、その音は彼らに聞こえているらしい。
全く独善的な考えだと思う。
もし天国に時間という概念があって、
深夜2時頃に顔の上に花が降ってきたり、
りんが鳴っては堪ったものではない。
ましてや全員が天国にいるならばまだ良いが、
もし地獄にいるとしたらどうか。
おそらく降ってくるのはナメクジの類いである。
そんなことはどこ吹く風、
僕らは勝手に故人を偲び、思いを馳せるのである。
時には祈り、時には神や仏などにすがるのだ。
それでも僕たちが彼らに出来ることはそのくらいのものであって、自分勝手なことは分かっていながらも、祈りを捧げ続けるのだ。
墓石に花をやり、両手を合わせたり、組んだりするのだ。
生きていた頃なんかには言えなかったような言葉を口をついて出てくる。
御影石を使ってたいそうな墓を建てたり、
生々しい色をした仏花を飾ったりする訳である。
病院で診療を済ませ会計を待つロビーでそんなことを思う。
ここまで仰々しい前書きだとさぞ大病を患って受診しているのかと思うだろうが、
ただの吹き出物を診てもらっただけである。
(アゲで身を固めたい自分にとって、
吹き出物なんてものは純度100のサゲでしか無く、忌々しい以外の何者でも無いわけである。)
ビタミン剤と抗生物質を貰ってて支払いを済ます。
そもそも病院とか注射とか血とか、そういった類ものがとにかく苦手だ。
前世は恐らく病院で酷い死に方をしたのだろう。そうに違いない。
この日は朝方雨が降っていたのだが、
病院から出る頃にはすっかり止んでいて、
雲の隙間から冬らしい暖色掛かった光が差し込んでいた。朝の11時ごろである。
ふと前を見ると、交差点のポールに乗り上げて完全に前輪が2つとも宙に浮いている車が打ち捨てられていた。
穏やかな昼の景色の中で、
明らかに不自然な存在感を放っていたのだが
ドライバーの姿は無く、
通行人やその横を通る車達も、
あたかもそこには何も無いような、
どこ吹く風で通り過ぎて行く。
その車両に重なるように光が空から差し込んでいて、それを見て何故か僕は、人間は死を意識した時にだけ、生を感じられるのだなと思った。
この程度の事故では恐らくドライバーは無事だが、当の本人は死んだと思っただろう。
生きている、良かったと思っただろう。
僕も病院を出て、今日も生きているなと少しだけ思った。(何回も書くが吹き出物で、である)
人は何か生を脅かすものを感じた時にのみ、
生のありがたみを覚えるのだ。
一方で死についてはどうだろうか。
1つ間違いの無いこととしては、
僕らは能動的に死ぬべきでは無いということだ。
僕らは須く何かに生かされている訳だから、
何かの為に最後を迎えるべきである。
三島由紀夫でもあるまいし、
自害なんてものはもっての外である。
自分が去った後も生きて行く者に対して、
何かを残せた時、それが残ったと、
残された者達に認められた時、
これが死を認識する時なのでは無いだろうか。
"残された者"とは、故人に先立たれた者のことでは無くて、意思を、愛や想いを"残された"者のことを指すのでは無いだろうか。
もしそうなのだとするならば、
僕らは自らの人生を勝手に生き切ったと思いがちだが、実は自らの生死ですら、受動的に決められているのだ。そうあるべきなのだ。
そんなことを、
でき物を3つ程こさえた顔で考えていた。
"Saravah! 甘い日々
カドリール 青い天使
いつかまたどこかで会おう
So long 淡い風
心にかかる夢よ
いつかまた おまえと会おう
今 限りない記憶をたどる
酔いしれピエロみたいに"
Saravah!/高橋幸宏