英国退屈日記『Q&A』

 


ロンドンにも初夏のような季節がやっと訪れて、

風に揺れる木々の影や、

自分の背丈ほどあるカバンを引きずって歩く子供、

このままでは液体になってしまうのでは無いかと思うほどの脱力感で日に当たる猫など、

目に入る物が全て美しく見える

とてもいい季節である。

 


一方で夜の冷え込みに怯える僕は、

最低気温に合わせた格好で、

厚手のスウェードのジャケットに、

年中履いている白いカーハートのペインター。

オードブルで取り残されたトレーの端に佇むフライドチキンのごとく、決まりの悪い感じの拭いきれずにいる。

そんな中所在無くも誠意仕事に向き合っているわけである。

誠意とか真摯にとか何をもってそれを人々は測るのだろうか今だに分からない。

円周率を覚えさせる前に教えることは沢山あるように思う。

 


とにかく僕は1ヶ月強の日本出張を終えて、

我がホームロンドンへ戻って来たわけだ。

ホームとはいえ、どうしても出稼ぎ感が拭えずにこちらに長いこと住んでいる。

海外に行けばあっちの人なんて残業とかしなさそうだし、

ワークバランスとかちょうど良さそうだなと

甘い考えでいた5年前の自分に

ジャーマンスープレックスかましたい。

やり方分からないけれど。

 


ロンドンなんてオシャレですねー

ごはん不味いって聞くよー

やっぱり8月はバケーション取るんですかー

クリスマスとか綺麗そうー

 


3,864,082回は聞いたフレーズだが、

全て大外れである。大いに見当違い。

聞かれ過ぎてQ&Aの書類作ろうかなと思ったくらいである。

はい、ご質問頂いた件につきましては、

こちらのQ&Aをご覧下さい。

先にお伝えしますと全くもってオオハズレでございます。

 


1.ロンドンがオシャレと思っている方々は恐らくノッティングヒルの恋人でも観たのだろう。僕も大好きな映画だが、コーヒーとオレンジジュースを持って歩いている不注意な本屋の店主はいないし、仮にもしいても発展するのは恋ではなく、ぶつかった事による訴訟問題だろう。

 


2.食事は狙いを定めて金さえ払えば美味いものは沢山ある。中華、韓国、インド、ベトナム料理等の移民が多い国のレストランは当たりが多い。いつまでもトリップアドバイザーなんかでレストランを探しているからダメなのだ。

 


3.スペイン、イタリア、フランスなんかの他の国は8月まるっとバケーションを取るが(経済が回っていない国ほどバケーションには躍起になる)、イギリスは夏から秋にかけてローテーションで休みを回すので、8月も止まることはない。そもそも9月にレディースのファッションウィークを控えているこの業界で8月に休もうとするブランドなんかある訳がないのだ。

 


4.皆、地元に帰る。即ち故郷がイギリスにない、僕らよそ者と勘違いした旅行者が右往左往する時期と言っていいだろう。

まずどこも開いていない。

 

 

 

6月に入ると、より緑は濃く、空は高く、夏の気配を増してくる。

この時ばかりはイギリス人も陰鬱な自らの性格を忘れBBQに勤しむ訳だが、

僕はここから怒涛の出張シーズンに入る。

今回はスウェーデンを皮切りに、ミラノ、パリ、パリ、ニューヨークと続く。

それはいつものことだから別にいいのだが、

今回の問題はそこに引っ越しが重なることだ。

 


大家に親戚を住ませるから7月末には出ていってほしいと言われたのが2週間前ほどか。

恐れていたことが起きた。

日本で言うところの2LDKの間取りのうちだが、月1400ポンド(今のレートで24万ほど)と破格なのである。

コロナで家賃が下落していたタイミングで借りていた為である。

真偽は分からないが、大家としては僕を出して家賃の相場を元に戻したかったのだと思う。

と言うわけで、このままだと8月から家なき子になってしまうので、目下物件探しに邁進中である。

 

ただ、コロナが明けてから家賃が高騰している中で、

かつ物件が枯渇しているのが現在のロンドンである。

おそらくニューヨークに並んで世界で1番物件を探すのが難しいのではないだろうか。

 


泣く子も黙る出張苦と、

安達祐実も驚く物件苦の中、

果たして僕の夏はどんなものになるのだろうか。

 


辛辣な気持ちを近所の猫2匹に変えて。

 

 

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"空がこんなに青すぎると

なにもかも捨ててしまいたくなる

空がこんなに青すぎると

このまま眠ってしまいたい

16のリズムで空をいく 昔の誰かに電話して

貰った花をまた枯らしながら 

今度呑もうねと嘘をつくのさ"


16/Andymori

雑多な手記として

 


良い映画を観た後のような清々しい朝日を浴びたミラノのチェントラーレ駅の前で、まだ僕は眠い目をしている。

 


いろんなところへ行けて良いねとよく言われるのだが、基本的に自分のベッドに居る時間をいかに確保出来るかが人生の宿命のような生活を送っている僕にとっては(オーダーメイドで枕を作るくらい本気なのである)、仕事で行く海外は気が滅入る時間そのものである事が多い。

 


ミラノは表現することが難しいくらいこれといって特徴がないのが特徴である。

まだフィレンツェとか南の方はイタリアらしさがあって良いのだが、この街は中途半端な発展とローマ時代の遺産がチグハグに混ざり合っていて取り止めがないのである。

 


ラ ラテッリアのレモンパスタと、

ロカンダ ペルベリーニのティラミス、

それとオステリア コンチェッタのリゾット。

 

 

 

 

 

 

、、、ここまで書いてぶっきらぼうなメモ帳の中に埋もれていた。

書いたのは1ヶ月ほど前か。

なにを言いたかったのかすら思い出せない。

半年に1度訪れるマグロ漁船や蟹工船を連想させる体力勝負の出張期間を終え、

それらの後処理に自宅で追われてた。

外界からの刺激を受けないこの期間は、

僕の心持ちも暗室で育てられるもやしのようにか細く色白のものになっていた。

 

 

 

そうこうするうちに日本行きの日程がが迫り、また僕は5ヶ月ぶりに機内でスカイワードを広げている。

 


僕の座った席の液晶が壊れていて、

映画も観れず14時間を持て余し、

続きを書いている訳だ。

 


この前取引先の同い年と夕食を取って、

そのあとホルボーンにあるバーで軽く酒を煽っていた。

分からないからと言い、

彼はメニューの2番目に書かれていた赤ワインを頼む。

僕は彼のこういう所を好いている。

言い換えるならばワインのなにそれを話す男が嫌いなのだ。

マッカラカンが無かったので代わりに僕はヴァルベニーに頼んだ。

ロックでアイスは6個である。

拘りに卍固めされている僕に比べて、

彼は軽やかで良い。

 


仕事の愚痴を肴に飲んでいると、

ふと彼がこう言うのである。

 


人類始まって何千年と経っていて、

その歴史で結婚というものを恐らく何億回と繰り返してきたはずで、それでも人類として結婚というものに答えが出ていないというのが答えなのではないか。

そもそも昔は13-15歳くらいで結婚して、

たかが30年ほどの寿命のうち、15年くらいを共に過ごせば良かったわけだが、

今は80-90歳くらいまで生きる訳で、

昔とは様子が違うのだ。

制度として破綻しているのではないか。

3組に1組が離婚する世の中で、

一生添い遂げられる方がよっぽど貴重でしょう。

 


彼は既婚で今年の夏から妻もロンドンに来るとのことだった。

そんな彼が話す結婚観は現実味や重さがあってそれでいて明るく光って聞こえた。

 

 

 

人は夢や希望、恋や愛、友情など定かでないものしか歌わないのである。

 

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昔あった国の映画で一度観たような道を行く
なまぬるい風に吹かれて
今 煙の中で溶け合いながら探しつづける

愛のことば
傷つくこともなめあうことも包みこまれる

愛のことば
溶け合いながら 溶け合いながら

 


愛のことば/スピッツ

アルコール度数6%のエッセイ7

 


料理家の土井善晴さんが好きだ。

彼は一汁一菜を提唱していて、

日々のご飯はご馳走でなくて良い。

具沢山のお味噌汁に1つおかずがあればそれでいいと言う。

おかずも時間が無ければお漬け物だって良いそうだ。

 


お米も食べる分だけ炊く。

手間を掛けなくていいから、

毎回作りたてのお味噌汁とご飯を食べようと言う。

 


僕は一人暮らしをして長いのだけれど、

作り置きをする事が苦手だ。

1週間分の買い出しも作り置きもまず出来ない。

毎日同じ服を着る事も好まない僕にはハードルが高すぎるのである。

とは言え、味噌煮込みやもつ煮なんかの煮込み料理が好きでよく作る。

すじ肉はこちらで手に入り辛いからオックステールを買って、小麦粉を塗して火にかける。

焦げ目が付いたら、皮も剥かずに野菜をぶつ切りにして鍋に入れて、あとは適当に酒やネギの青いところ、生姜なんかを加えて数時間煮込むだけである。

 


大体3日くらい持つし、その間同じものを食べることは僕にとって苦痛ではない。

 


しかしながら、一度煮込んでしまっては、

食べ切るまでそれ以外のものを食べる訳にはいかない。

ある種の契りのようなものだ。

手間を省くかわりに僕の数日を生贄に捧げるのである。

 


思いがけず仕事が早く片付いて時間があったとしても、僕はこれを食べなくてはいけないから、外食したり、人と会ったりする訳にはいかないのだ。(人を招いて一緒に食べるには少々量が足りない。)

 


便利さを取ることで外界から遮断される(されるというよりは自ら絶っているに近い)。

気がつくと2本目のビールに手を伸ばしていて、1日誰とも会っていない事に気がつく。

 


土井さんは一汁一菜を通して、他者と、社会と、はたまた本来の自分と繋がる機会を増やそうとしてくれているのではないのかと、煮詰まり切って角の取れた野菜が転がる3日目の煮込みに箸を伸ばしながらそう思う。

 

 

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飲酒量:缶ビール2本

英国退屈日記『オイスターカード』

全くもって嫌になる、この手際の悪いことよ!

絶望的な要領の悪さである。

仮に人類を神が創ったのだとしたら、

これは正に欠陥工事である。

 


何に憤っているかというと、

欧米人の改札前での所業についてである。

 


日本で言うところのスイカ的なものがこちらにも当然ながらあって、オイスターカードと言う。

 


トップアップ式のカードで、使い方はスイカとなんら変わりない。

世界一利用数の多いと言われている新宿駅ですら、人々は正に流れるように改札を通り抜けていくわけだが、こちらではそうはいかない。

どの駅でもいちいち長蛇の列になる。

確かに改札の数がやや少ないことは認めよう。

然し乍ら、それを差し引いても通り抜けるのに時間がかかり過ぎているのである。

 


理由は複数あって、まず初めにくるのが、

そもそも改札の直前に立つまでカードを用意していない事だ。

自分の番が来て慌てて鞄を開けてカードを探し出す。

頭を下げて鞄を漁る彼等に反比例して僕は天を仰ぐ。欠陥業者の神を見つめる。

彼等のモーニングルーティンでも見てみたい位である。手際の悪さを事細かに指摘してやるのに。

 


やっとカードを見つけて、センサーにカードをかざす訳であるが、カードが折れるのではないかと思うくらい強くセンサーに押し付ける。

物事には須く適切な距離感というものがあって、近づけば良いというものではない。

ましてや機械相手に力を使ったところでぬかに釘、全くもって意味を成さないのだ。

くしくも塩梅という言葉がない国では通用しないのかも知れないが、触れるか触れないか位の絶妙な距離感を保つことがセンサーを使いこなす心得である。

 

何度かカードを機械にぶち当てて、

はたと気がつく。このカードではなかった。

また鞄を漁る行為に戻る訳だが、

世の中決まってこういう場合には、

探してもいないところに答えがあったりする訳で、この場合の正解はジーンズの左ポケットであった。

 


こんなことを5-10人くらい続けて僕の番になる。この間に果たして何本の電車を見送ったのであろうか。

 


4口コンロを華麗に捌くことも、

洗濯機を回してから入浴に移ることも出来る僕は、既にオイスターカードを右手に控えさせている。

左手にはこの後役目を終えるカードを迎え入れる為に、財布を開けて待ち構えているのだ。


遠過ぎず、近過ぎず、姑との付き合い方を心得ている嫁の如し距離感でカードを改札にあてがう。あら、お母様ごきげんよう


0.5秒ほど遅れて反応するゲートに合わせて、

既に僕の右足は歩みを進めている。

機械というものは人間が支配すべき物であって、逆はあり得ないのである。

マシーンの都合で僕が歩みを止めることは決してあってはならない。


既に左手の財布が、

務めを終えたオイスターを迎えに行く瞬間、

赤いランプが光ってゲートに身体がぶつかる。

 

 

 


残高不足である。

 

 

 

後ろの女性に一瞥をくれられた僕は、

入り口まで戻って券売機の画面をこれでもかと力強く押すのであった。

 

 

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"この悲しみをどうすりゃいいの

誰が僕を救ってくれるの

僕がロミオ 君がジュリエット

こいつは正に大迷惑

君をこの手で抱きしめたいの

君の寝顔を見つめてたいの

町の灯潤んで揺れる涙 涙の物語"


大迷惑/ユニコーン

アルコール度数6%のエッセイ6

 

“ほんの少し気合を入れて、鳥肌立ちそうな言葉を吐くって大切なのよ。そういう言葉が人付き合いを円滑にしていくの。”

今読んでいる本でそんなことが書いてあった。

 


この気合を持ち合わせていなかったが故に、

僕は一体どれほどのものを失って腐らせてきたのだろう。

 


僕の両親はこれに関してはプロで、

持ち得るもの全てを賭けて、

或いは持っていもしないものですらも、

僕に向けて投げ掛けた。

(恐らく...僕の前世の行いがとても良かったのだろう。)

 

 

 

生きれば生きるだけ、愛について。

それがいかに取り留めがなくて、

それでいてとても掛け替えのないものなのかを考える。

 

 

 

約1万日強も生きているのに、

どうして割り切った言葉を見つけられないのだろうか。

それか気合を入れて鳥肌が立つことを恐れているだけなのか。

もしくはもう見つけていたりする気もする。

 

仕送りに添えられる母からの手紙を見つめてそう思う。

 

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飲酒量:芋の白湯割りを2杯

独善的な祈り、受動的な生死について

故人を思い出す時、天国にいる彼らの上には花が降るらしい。

仏壇のりんを鳴らす時、その音は彼らに聞こえているらしい。

 


全く独善的な考えだと思う。

 


もし天国に時間という概念があって、

深夜2時頃に顔の上に花が降ってきたり、

りんが鳴っては堪ったものではない。

 


ましてや全員が天国にいるならばまだ良いが、

もし地獄にいるとしたらどうか。

おそらく降ってくるのはナメクジの類いである。

 


そんなことはどこ吹く風、

僕らは勝手に故人を偲び、思いを馳せるのである。

 


時には祈り、時には神や仏などにすがるのだ。

 


それでも僕たちが彼らに出来ることはそのくらいのものであって、自分勝手なことは分かっていながらも、祈りを捧げ続けるのだ。

墓石に花をやり、両手を合わせたり、組んだりするのだ。

生きていた頃なんかには言えなかったような言葉を口をついて出てくる。

 


御影石を使ってたいそうな墓を建てたり、

生々しい色をした仏花を飾ったりする訳である。

 


病院で診療を済ませ会計を待つロビーでそんなことを思う。

ここまで仰々しい前書きだとさぞ大病を患って受診しているのかと思うだろうが、

ただの吹き出物を診てもらっただけである。

(アゲで身を固めたい自分にとって、

吹き出物なんてものは純度100のサゲでしか無く、忌々しい以外の何者でも無いわけである。)

 


ビタミン剤と抗生物質を貰ってて支払いを済ます。

 


そもそも病院とか注射とか血とか、そういった類ものがとにかく苦手だ。

前世は恐らく病院で酷い死に方をしたのだろう。そうに違いない。

 


この日は朝方雨が降っていたのだが、

病院から出る頃にはすっかり止んでいて、

雲の隙間から冬らしい暖色掛かった光が差し込んでいた。朝の11時ごろである。

 


ふと前を見ると、交差点のポールに乗り上げて完全に前輪が2つとも宙に浮いている車が打ち捨てられていた。

穏やかな昼の景色の中で、

明らかに不自然な存在感を放っていたのだが

ドライバーの姿は無く、

通行人やその横を通る車達も、

あたかもそこには何も無いような、

どこ吹く風で通り過ぎて行く。

 


その車両に重なるように光が空から差し込んでいて、それを見て何故か僕は、人間は死を意識した時にだけ、生を感じられるのだなと思った。

 


この程度の事故では恐らくドライバーは無事だが、当の本人は死んだと思っただろう。

生きている、良かったと思っただろう。

 

 

 

僕も病院を出て、今日も生きているなと少しだけ思った。(何回も書くが吹き出物で、である)

 


人は何か生を脅かすものを感じた時にのみ、

生のありがたみを覚えるのだ。

 


一方で死についてはどうだろうか。

 


1つ間違いの無いこととしては、

僕らは能動的に死ぬべきでは無いということだ。

 


僕らは須く何かに生かされている訳だから、

何かの為に最後を迎えるべきである。

三島由紀夫でもあるまいし、

自害なんてものはもっての外である。

 


自分が去った後も生きて行く者に対して、

何かを残せた時、それが残ったと、

残された者達に認められた時、

これが死を認識する時なのでは無いだろうか。

"残された者"とは、故人に先立たれた者のことでは無くて、意思を、愛や想いを"残された"者のことを指すのでは無いだろうか。

 


もしそうなのだとするならば、

僕らは自らの人生を勝手に生き切ったと思いがちだが、実は自らの生死ですら、受動的に決められているのだ。そうあるべきなのだ。

 

そんなことを、

でき物を3つ程こさえた顔で考えていた。

 

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"Saravah! 甘い日々

カドリール 青い天使

いつかまたどこかで会おう

So long 淡い風

心にかかる夢よ 

いつかまた おまえと会おう

今 限りない記憶をたどる

酔いしれピエロみたいに"

 


Saravah!/高橋幸宏

割愛

今年の書き初めは"割愛"にした。

思ったより4割くらいか細い字で、

左に斜行してしまった。

決意と呼ぶには程遠い字であった。

 


僕は割愛という言葉が好きで、

元来、惜しみながらも思い切って捨てるという意味だ。

 


なぜこの字にしたかというと、

昨年が蓄えた年に思えたからだ。

無論、脂肪の事ではない。(いささかそれも蓄え過ぎた気もするが)

 


流行り病が始まって規制されたのは、

物理的な行動ではなく、

真に抑制されたものは言論や感性の類だと思う。

"叩く"という言葉が横行し、

ほぼ無差別に熱を感知した箇所を叩きのめしていった。

僕にそれは意志を持ったアメーバを思い起こさせる。

 


多様性を重んじようとする流れの中で、

明らかに矛盾した形で均一化が進んでいった。

 


この前友人と話していて、

1人が今は"NOパンク時代"だと言った。

その通りだと思う。

 


はみ出たものはアメーバに嗅ぎつけられて、

瞬く間に飲み込まれる。跡形もなく。

 


人種や性別を慮るが為に、

007の主人公が黒人女性になったり、

ヨーロッパの旧時代ものにアジア人が登場するなど、辻褄の合わないことが起きている。

 


プラスチックを減らすという大義名分のもと、紙を大量に消費している。

10年ほど前は森林伐採が良くないと、

ペーパーレスを進めていたはずだが、

あれはどこに行ってしまったのか。

 


こういうことに疲れて、

なるべく感情を揺さぶられないようにと、

映画やメッセージ性の強い展示なんかを意図的に避けてきた数年間だった。

 


すると自然と自分の中に消化出来ない、或いはする気のない感情や意見、その他様々なものが蓄積していくのだった。

 


それらを今年は淘汰して、

割愛していく年にしたいなと思う。

捨てる機会を逃したくたびれたタオルケットのような、

ただただ嵩張るものたちを仕分けて、

改めて自分の容量を空ける作業である。

 


人と話すこと、新しいものを見ること、聴くこと、赴いて体験すること、そういう事に時間を割くことで、新たに何かを入れることで溜まっていたものを手放していく、整理していくというのが、僕の意図する割愛である。

 


この1年を通して残ったものが、

今後一生大切に出来る、

そんなものになるといいなと思いながら、

今日6個目の切り餅を頬張っている。

 


残っていたティラミスも食べた、

昨日作ったこれまた残りの角煮も平らげた、

ふと間接視野で捉えたポテトチップの、

以下割愛。

 

 

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"どれ程 目をこらしたなら明日が見えるのだろ

僕にもわからないけど 信じていたい

誰かをせめちゃいけない もちろん君自身も

何かが狂っただけさ よくあることさ

せめて君の夢が かなうよう

僕は唄い続ける この唄を"

 


夜明け/松山千春