ピアノ三重奏の静かな冬の終わりも
マーチングバンドの行進のような春も
思い描いていたものは何ひとつ聴き取れないまま、初夏に入ろうとしている。
あるいは今年の夏は高気圧な入道雲に思うアコースティックギターのアルペジオも夜に聴く暑苦しいソウルも感じられないのかもしれない。
日々多方面から聞こえる罵詈雑言をミュートモードに入れるだけで精一杯である。
怒りという感情に対して共感を得やすい雰囲気に包まれているような気がしている。
聴きたい耳障りの良いものが聞こえず、
聴きたくない音から自分を守る為に、
大声を出して何も聞こえないようにしているように感じる。
その大声からまた人々は自らを守る為により大きな声を出す。
そうして積み重なった密度の濃い声が、
一斉に何かを叩きのめそうとしているように思えてならない。
血眼になって探す大声を浴びせていい場所を、人を、持て余した時間潰しに見つけては、本当に潰していく。
"黙っている貴様らも、
声を出さない貴様らも、
黙秘は賛成ではなく、決して理解ではなく、
ただ背いているだけだ!"
と言わんばかりの圧力が、
不意に拾ってしまったラジオの音波から、
僕の耳流れ込んでくる。
その音はラジオの出力をとうに超えた、
割れて雑味の強い音をしている。
容易に発信し得るこの現代で、
自分の意見を(この記事で言うところの音楽を)、他の人に届けないのは悪であると、
"歌ってみた"の人々が口を揃える。
その度に僕の口は固くなり、
何も歌えなくなるのだ。
退屈であるべきこの日記が、
退屈であることが悪だと、
頭の中の大声のデモ隊に言われている心持ちになり、僕は何も書けなくなる。
大切なことは理解と寛容な心である。
それを外に出すか出さないかは、
個人に委ねるべきだ。
分かりやすく凡庸な例えをすると、
愛する人の為(人類愛とかではなく、個人的で具体的な愛の類である。こういう注釈を入れなければならない事にすら僕は辟易とする。)にしか歌わない人がいて然るべきだし、
なにも、歌は人前で歌わなければならないわけではない。もっと私的で良いわけである。
花見もできず、海を開かず、
オリンピックもフジロックも、
気持ちの良いところを全て奪われた
振り出しに戻った人間僕らが、
無味乾燥を超えて苦味しかないこの年を、
じっと耐え抜くだけではやり切れない。
大声を上げて喉を潰すよりも、
静かに1人で歌う方が僕は良い。
声を上げるなと言うわけではなくて、
他人に無理にマイクを持たせるなと言いたいのだ。
これではパワハラまがいの上司と同じである。(ちなみに僕は、上司に無理にマイクとグラスを持たせるパワハラ後輩である。)
ラブもピースもまずは自分の中で(潜在的な意思も含めて)、咀嚼し消化する。
それらが共鳴しあって初めて真のそれである。
ピアノ三重奏はヴァイオリンもチェロもいて初めて事を成す。マーチングバンドも指揮者大太鼓、管楽器、はたまた音の出ないカラーガードも居てこそのそれである。
まずは個々人自分をしっかり理解する。
その上でのグルーヴだ。
また明るい行進曲が聞こえてくる日が早く来ることを祈って。
"悲しくなったり 切なくなったり
ため息吐いたり 惨めになったり
いつかは失ういのちを思ったり
それでも僕らは息をしよう
開け心よ 何がやましくて
何故悩ましいんだ僕ら 光れ言葉よ
それが魂だろう 闇を照らしてどこまでも
行け 行け 行け"
マーチングバンド/ASIAN KUNG-FU GENERATION