ロンドニアム ダブルベッド

一体、一生のうちに

何個のベットに寝るのだろう。

思い返してみれば、

中学に上がる際に祖父に買ってもらった

シングルベッドに皮切りに、

クッションがたくさん置いてあるベッドや、

下に収納の付いているベッド、

製造過程で不備があったとしか

思えないような底なしに沈むベッド、

糊の効きすぎたリネンに、

シングルサイズ以下の幅しかないベッド。

人生の3分の1をもベッドで過ごす僕(ら)は

彼らと分かり合える日が来るのだろうか。

人の家に泊まった翌日の朝の、

結局彼らと分かり合えなかった、

あのなんともいえない気だるさを思い出す。


今僕はダブルサイズのベッドから起きたばかりで、

二つ配置された枕は各々硬さが違うが、

いずれにせよどちらも柔らかすぎる。

ドアの反対側の壁に配された窓からは、

朝日とも夕日とも取れるどっち付かずの空が伺える。

僕が1日で1番好きな瞬間である。朝の7時だ。

起きてまず、洗面台に向かい、日本のそれよりも性能のいいシャワーで頭を濡らす。

ポイントはここで顔も洗ってしまうことだ。

5色使いの発色のいいビーチブランケット位はあるバスタオルで頭を拭く。

日本から持ち込んだ使い慣れた歯磨き粉を、

これまた使い慣れた歯ブラシに大豆2個分くらいを載せる。

右上奥歯から磨き始める。

それを終えたら、椿油を少々左手に取って、

濡れたままの髪に馴染ませる。

普遍的なセンター分けに髪を撫でつける。

パジャマを脱ぎ、即興で決めた服に着替える。

Tシャツをめくり、香水を3回振りかける。

靴の色に合わせて腕時計を選ぶ。

読みかけの文庫本を持っていくかどうか迷い、

重くなるから思い、置いていく。(後に電車の中で後悔する。)

二重鍵のドアをゆっくりと開けて、ゆっくりと閉める。

エレベーターに乗り込み、0階を押す。

右手に見える朝日を横目に、

少し大きめの歩幅を意識しながら、

8分程かけて駅へ向かう。


明日から1週間ほどかけて、

合わせて3つのベッドに寝ることになる。

行き先は、ベルリン、アムステルダム、パリ。

仕事7割、遊び3割とどっち付かずの旅だ。

大体にして、

いつも僕はどっち付かずである。

どの都市のベッドと分かり合え、

どの都市のベッドと仲違いするだろうか。


朝日を見出す事は出来るのだろうか。


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"目覚めはなぜか悲しいほど爽やかで

着替え始めた君は忙しそうで

ベッドの中から好きだよって囁く"


床には君のカーディガン/THE SALOVERS



英国退屈日記:新聞


"こと未だ成らず小心翼々
こと将にならんとす大胆不敵"

何かを始めるときは周到に調べ上げ、
大成しても油断することなかれといった意味の西郷隆盛の言葉だ。

見切発車を1番の得意技としている僕としては耳の痛い言葉である。

会津藩擁する福島県民としては、
左翼の西郷隆盛なんぞ!
と思われがちであるが、
あくまでそれは会津界隈の人間だけであって、中通り(僕が生まれた地域を指す)、いわきの人間からすると全くどうでも良い話である。
僕が学生時代に習ったメダカすら住めない水溜りの様に浅い日本史によると、会津を除いて他の福島県民は反幕府側だったと言われている。

導入が長い文章ほど面白くないものはないので、このくらいにしておくが、今日は新聞についての退屈だ。

はやりこちらの新聞にも、右左翼がある。
新聞は主にタブロイド、ブロードシーツの2種類に分かれていて、これらの定義は用いる紙のサイズで分類されている。
タブロイド紙では、サンやミラー、メトロが代表的で、ブロードシーツでは、ガーディアンあたりが大手である。
サンとガーディアンは左翼、メトロが中立、
ミラーとが右翼である。
日本の週刊誌(こちらではガータープレスと呼ぶ)と同様、
基本的には左翼側の新聞は
ゴシップ系のネタも取り上げるため、
基本的には街中で読んでいる人は見かけない。
日本だと喫茶店なんかでは、
3日に5回くらいの頻度で着ているであろう
褪せた色のセーターを着た中年男性は
大体週刊誌を読んでいるものだが、
こちらイギリスでは未だに階級社会があるために見かけないのだ。
育ちや家柄、話す言葉はもちろん、
どの紙面を脇に抱えているかでも
階級を判断されてしまうためだ。
僕らがイメージするイギリスの、
田園都市的思想に基づいた生活は、
あくまで中間上流階級以上の話であって、
数パーセントしかいないだろう。
話を聞く人聞く人、階級制度なんて
ナンセンスだという。
しかし今だにそれから脱却できず、
根強く残ってしまっている為、
古豪の国に留まっているのだ。
もちろんそのおかげで、
ネクタイはウィンザーノットだとか、
靴は黒のオックスフォードキャップトウだとか、ウォッチポケットが付いたサイドベンツのジャケットだとか"ポッシュ"で"洗練"された拘り(皮肉と尊敬を込めて)が生まれている。
一方で我らがトレインスポッティングに象徴されるような下級層の文化や、パンクやモッズが生まれているのも事実である。
ただ、パリなんかに比べると
どこか垢抜けない感じがするのは
この階級社会の影響があるのではないかと感じている。


せっかく右左の話になったので、
道路の話をしようと思う。
イギリスは日本と同様左車線の国だが、
キースはこれを”collect way(正しい道)”と呼ぶ。
右車線の国々に対しての皮肉を込めて
そう呼んでいるのだが、
遡ること"まだ道に左右の区別がなかった世紀"(キースもいつだかは知らないらしい)、
もう既に人々は道の左を歩いていたらしい。
その時代の交通手段は馬であり、
騎士は常に武器を備えている。
左に鞘があり、右手で剣を振る。
もし道で敵に出くわした際、
自分の左側にいる相手には
剣が届かなくなってしまうのだ。
その為自然と人々は道の左側を歩くようになったそうだ。


上手いまとめが思いつかないなんて、
考えること5分。
あくまで日記であるのだから、
そんなものは必要ないのだ。


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“話すコトバはとってもポジティヴ
思う脳ミソホントはネガティヴ
バカなヤングはとってもアクティヴ
それを横目で舌打ちひとつ"





英国退屈日記:流し

露店で拵えた様なキャスケットに、

視力を矯正する為だけに掛けている眼鏡。

昼間からはしご酒。

吉田類の酒場放浪記だ。

お馴染みのあの曲は

The KlezmorimのEgyptian Fantasy 

邦名は"エジプトの幻想"という。

妙な組み合わせであるが、これが何故かしっくりくるのだ。

 

いかにも吉田類が好みそうな一本奥にある飲み屋横丁に

軒を連ねる居酒屋を僕らは赤提灯系と呼んでいる。

昔はそんな赤提灯系の居酒屋に”流し”と呼ばれる、

アコースティックギターアコーディオンを片手に

客の好みに合わせて曲を弾く楽師達がいた。

確か僕らの(僕と僕の祖母を指す)北島三郎ことサブちゃんも

”流し”上りだったと思う。

 

川端康成著の”伊豆の踊子”では流しの芸人一座が登場する。

主人公の青年はその旅一座の芸者である踊子に恋をするのだが

その踊子の純粋無垢さに引かれる孤独な主人公の姿に、

僕は強く憧れたことを覚えてる。

 

流しの彼らは僕が酒を飲めるようになった頃には、

シベリアに生息するマナヅルほどの数になってしまっており、

実際にお目にかかった事はない。

 

本や映画、人の話に聞くところ、

いかにも日本らしい風情、趣が感じられるものであって、

もし僕がその場に居合わせることができたなら、

河島英五の”酒と泪と男と女”に始まって、

さだまさしの”精霊流し”も掛けてもらおうなんて妄想している。

吉田拓郎の”結婚しようよ”なんてのもいいなと思う。

渡邉家としてはイルカの”なごり雪”とかぐや姫の”神田川”も外せない。

 

ちなみに海外でも”流し”がいる。今もいる。

僕はパリとロンドンでしか出会ったことがないが、

おそらく他の都市でもいるのであろう。

先日僕が(確か商談帰りか何かであった)電車に乗っていると、

進行方向とは逆の車両から爆音のサンバが聞こえてきた。

割と夜も遅く、僕は疲れていたのでただ活字として認めるだけの読書をしていた。

するとその爆音が徐々に近づいてくるのである。

堪らず顔を上げると僕のすぐ横にラテン系の顔をした男3人が

轟音と共に立っていた。

一人はトランペット、一人は中太鼓、残りの一人は7歳児ほどの大きさの

スピーカーを持っていた。

ラテン系の(残念ながら曲名がわからない)曲が終わったかと思えば、

ビリー・ストレイホーンの”A列車で行こう”を演奏し始めた。

元来ビッグバンド用の曲を3人で挑んだ心意気は認めるが、

トランペットソロと中太鼓によるアレンジ以外は、

そのスピーカーから流れるボリュームを上げすぎた時に起こる、

聞くに耐えない割れた音に全てを委ねていた。

僕の前に座っていた昔はさぞ端正な顔つきであっただろう事が伺える老紳士は

両指でワインのコルクを再度ねじ込むような勢いで耳を塞いでいた。

僕としても疲れていたし、全くを持って愉快な気分にはならなかった。

一通り演奏が済むとトランペット担当が僕の前に立ち、

チップを要求してくる。もちろんあげない。

諦めた様子で、次に老紳士の前に立ちはだかる。もちろんあげない。

その後彼らは次の車両に移り、シナトラの”ニューヨーク・ニューヨーク”を

演奏していた。ロンドンでその選曲をする心意気も認めたいと思う。

ちなみにパリで出会った流しは家庭用の持ち運びが出来るカラオケ機を

列車内に持ち込み、DAMの採点では点数も付かないような酷い歌声を披露していた。

何かの罰ゲームであったに違いない。

 

最後に折角サブちゃんが登場したので思い出話をひとつ。

まだ僕が小学校に上がるか上がらないかくらいだったと思うのだが、

今はなき、新宿コマ劇場に毎年祖母と母とでサブちゃんのコンサートを

見に行っていた。(僕はポケモンセンターを餌に連れ出されていた。)

サブちゃんは決まって最後に龍やら七福神(だったと思う)が乗っている宝船に乗って登場する。歌う曲はもちろん”まつり”である。

その龍の鼻の穴が異様に大きく、(念のため、サブちゃんは鼻の穴が大きい事で有名)

漆黒のブラックホールが2つ横並びで今にも観客の60年前の女子高生達(僕は巣鴨に住んでからおばあちゃん達をこう呼んでいるのだ)を、今にも飲み込みそうな勢いで鎮座している。そのブラックホールから威勢よくスモークが噴射されるのだがそれを見て”女子高生”達は大喜びしているのだった。

ちなみに北島三郎が馬主の”キタサンブラック”はこの逸話から取った馬名だそうだ。

 

もちろん嘘である。

 

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”銭の重さを数えても 帰るあてはない

二百海里をギリギリに 網を掛けていく

海の男にゃヨ 怒涛(なみ)が華になる

北の漁場はヨ 男の死に場所サ”

 

北の漁場/北島三郎

 

 

 

レペゼンニッポンジン

こちらの隠語で"Black Sheep"というものがある。

直訳では黒い羊だが、厄介者・面汚し"という意味で用いられる。

ご存知の通り羊の毛は白いのが一般的である。

黒い羊毛は染めようがないし、使い道がない。

高値で売れない。

ただ餌を浪費するだけの存在なわけだ。

部外者や集団と異なるものが忌み嫌われるのは人間社会でも同様のことである。

アメリカのタバコ会社のスローガンで、

"出る杭は打たれ強い"なるものがあったが、

これはあくまで"そうであったらいいな"という希望的観測であって、現実にはそうはいかない。

たかが杭の分際で、金槌に叩かれて平気なわけがない。

金槌達は必ず完璧に沈むまで叩き続ける。

憎しみや軽蔑、差別に勝る重さはないのである。

僕は今、異国に居て

それによって初めて痛感するのだが、

僕は"日本人"でありたいと思う。

日本人であることを恥じるべきではないし、

英語がネイティブでないからといって彼らに劣ってはいない。

彼らは日本語がネイティブでないのと変わりがあるのだろうか。(いや、ない。)

それと同時に思うのだが、

僕が日本人で在りたいと思えば思うほど、

僕はイギリス人にならなければいけない。

彼らの文化を理解し受け入れ、

彼らの言葉を彼らと同様に操れなくてはならない。

さもなくば、彼らは僕のことを

英語を話したがっている外国人としか見なさない。

彼らと同じ目線で話せて初めて彼らは

僕が日本人であることを認める。

一見矛盾しているように感じるのだが、そうではない。


わかりやすく例えるならば、

(無論、差別的な意味を絶対的に持ち得ないことを前提として)中国人と日本人が全く同じものを同じ値段で売りにきたとする。

中国人は片言の日本語を話す。

日本人はウィットに富んだ気の利いたジョークを母国語で話す。

値段も品質も全く変わらないものを

あなたはどちらから買うだろうか。

偽善の情けを持ち合わせた特異な人でなければ、間違いなく日本人から買うだろう。


僕は今この中国人と同じ立場に立っている。

アイスランドあたりから吹き付ける偏西風に

今にも飛ばされそうな心許ない1人の外国人に過ぎない。


僕が日本人として、僕ら特有の勤勉さ(僕にその特性があるかは別として)や、ホスピタリティあふれる接し方は、

僕がイギリスに住む1人の人間として見なされて初めて活きるのだ。


醜いアヒルの子が、

実は白鳥であったことを示すためにも、

羊は羊らしい形姿で、杭は杭らしい立ち位置であるべきなのだ。



レペゼン・ニッポンジン

a.k.a ミスターニッポンジン

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"在日日本人、最新資本主義

売って売って売りまくるカルチャー

北は択捉、南波照間

輸入カルチャーに決して負けるな

援護してくれ全国民 右翼左翼無し

びびらすNY”


在日日本人/SANABAGUN.

英国退屈日記:花其の二

"色は匂へど 散りぬるを"


美しく香る花もいつかは散る、

ご存知の通り、

諸行無常を表すいろは歌の始めの句だ。


僕は花は枯れた時が1番美しいと感じる。

僕らが高校生の頃に流行った

スリーピースバンドも歌っていたように、

無機質な造花は何も力を持たない。

ただそこに存在しているだけである。


僕はよく買った花を枯らしたまま飾る。

本来美しくあるべき花が、

萎んでいく様がもっとも艶やかな瞬間だと感じる。


また、不釣り合いなほど大きいベースメントにあえて一輪だけ飾ることもある。


要するに、本来そうあるべきものが、

そうではなくなってしまったところに

惹かれる訳だ。


もう少し言うと、咲ききって、

ゴミ箱に入れられた花が

最も美しいのではないかと思う。


この話をすると、9割9分9厘の打率で(もっとも’イチロー達’が束になってかかってきても到底出せない打率である訳だが)、理解してもらえない。


しかしこれは花だけではなくて、

僕の仕事の1つである生地を作る際にも

同じことが言えると思う。


本来は横糸にこれ使うべきとか、

特定の用途の生地にはこの素材で、

この織り方であるべきとか、

一応の定石はある訳だけれど、

それを一旦無視して、

本来では使わない織り、素材、加工を

1つないし2つ用いることで、

違和感が出せる。

宿敵のように

喉に刺さり続ける魚の骨の様な、

不快感であっては勿論ならないが、

どこか変だなといった、

考えさせられる生地が

僕は作りたいといつも思う。


先日イギリス人の友人と

花の話をしていた際に、

僕からは何も言っていないのに、

『私は花が死んだ時が1番好き』と言い、

僕の数少ない友達であるワクイ君以来、

人生で2人目の共感してくれる人間に出会った。


ちなみに同居人のキースはというと、

(先日僕が贈った、花まで緑色のチューリップが僕らのリビングに今飾られているわけだが)

もちろん毎日水を替えてくれるし、

悪くなった花は僕が起きる頃には

(キースはなんと朝の5時半には起きている)跡形もなく消え去ってしまっている。


イチロー達の打率が下がる事は

まだまだ先のことになりそうである。



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“安心な僕らは旅に出ようぜ

思いっ切り泣いたり笑ったりしようぜ

愛のバラ掲げて遠回りしてまた転んで

相槌打つよ 君の弱さを探す為に”


バラの花/くるり




英国退屈日記:花

打った覚えの無い右肘が妙に痛む。

"貴方が噛んだ小指が痛い"のならば

理解出来るが、

これに関しては全く身に覚えが無い為、

やや戸惑いながら、この日記を書いている。


ここのところ、この日記以外にも、

少しだけまとまった文を打つことが多く、

なかなか日記を書く気が起きなかった。

どうやら、僕の場合1日に打てる文字が

ある程度決まっているみたいである。

もう1つの理由としては、

祖父から譲り受けたフィルムカメラ

壊れてしまったことだ。

最後に挿入している写真のネタが、

枯渇しつつあるのだ。

英国滞在記のくせに、殆どの写真が

日本で撮られているのはそういう訳である。


今日は花について書く。

花については1つの日記にまとめられそうも無いので、今後も登場するだろう。

『革靴と花だけは裏切らない』というのが、

僕のもっぱらの信条である。

別にそれら以外の何かに、

裏切られた経験があるとか、

そういうことでは無い。

あくまで心持ちの話である。


18歳の時に、過度にかけ過ぎたパーマ頭と共に上京した僕は、目にも留まらぬ速さで(この表現が1番しっくりくる)ホームシックに掛かり、3週間に一回くらいのペースで地元に帰っていたのだけれど、気を紛らわせる為にもアルバイトでもしようと思い立って、

最寄駅の花屋でアルバイトを始めた。

慣れない生活で疲れた心を花なら癒してくれるだろうと思っていたのだ。それが入ってみてどうだろうか。おそらく今まで経てきた仕事の中で1番体力的にこたえた。

朝の7時前から、長い時は夜の12時過ぎまでの長時間拘束に加え、水の入ったベースは重いし、薔薇の棘は容赦なく刺さる。

先輩は(この時僕以外全員女性であった)進路相談に乗る担任教師の様な顔つきで、私は花と話せるのと言う。

それでも花はある種の神秘さを孕んだ美しさを持っていたし、例えそれが飲み屋の贔屓の娘にあげる為だとしても、花を買うという行為はとても神聖なものに感じられた。


他にも書きたいことが沢山あるが、

それは次回にしようと思う。


日本より海外の方が花が生活に馴染んでいるような気がする。ロンドンでは露店で花をよく売っている。見かける品種は日本とそう変わらなくて、変哲も無い薔薇やチューリップに始まり、トルコキキョウ、フリージアラナンキュラス等、どこでも見かけるようなものである。

クリスマス前になると、それらにアマリリスポインセチア、西洋ヒイラギが加わる程度だ。

しかし、値段が全く東京都は異なり、

15本程の薔薇の束で約750円程度である。

東京で買えば、30005000円はする為、

かなり割安である。

アイルランドで生産されているものが多いとの事であった。


クリスマス前に、コロンビアロードフラワーマーケットと言うホクストン近くのマーケットに行ってきた。年の瀬の日本の花屋に仏花と門松、千両以外の花が消えるように、こちらでは先ほど述べたようなポインセチア等がほとんどを占めてしまう。普段だとかなりの種類の花たちが約50メートルのマーケットに所狭しと並べらるとGoogleマップが教えてくれた。


その後に立ち寄ろうと思っていたイタリアンレストランが満席で1時間程待つと言われた為、諦めようと思っていたのだが、

奥から現れたウェイターの女性の綺麗さのあまり、人生で初めて僕は息を飲んだ。それも僕だけではなく一緒に来ていた女性の友人も一瞬時間が止まっていた。

異議なく1時間待つことにしたのだった。

しばしば女性は花に例えられるが、

彼女はまさに西洋版の

"立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は百合の花"であった。

選ぶとするならば、彼女は芍薬の様な

すらりとした姿の女性であった。


席について食事をオーダーする頃には、

彼女の姿はなかった。

恐らく早番ですでに上がっていたのだろう。



この流れでこれから書くことを見ると、

かなり物騒なのだが、

次回の花の話は、

"死んだ花が1番美しい"

から始めたいと思う。

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"今は欲しくはない

花なんて大人には似合いはしない

花なんて大人には似合いはしない"


でももう花はいらない/オフコース

*僕の解釈では、この曲は気持ちと反対のことを歌っている。



英国退屈日記:写真

"写真は過去しか撮れない、シャッターを押した瞬間にそれは過去になるからだ"

誰の言葉だったか忘れたし、

このような言い回しであったかすら

いまいち自信がない。

数人だけれど、写真家の友人知人がいる。

この時代、誰でも簡単に写真が撮れ、

職業写真家はかなり曖昧な職種に

なってきていると思うが、

それでも彼らの撮るそれらは、

僕が撮る思い出写真等とは、

全くの別物である。

写真に現実味があり(写真が現実を切り取るものという定義を踏まえた上で尚)、

素人の僕でも感じられる彼らの感情がある。

 

マーティン パーと言う

イギリス人の写真家が居るのだが、

彼はマグナムと言う世界一の写真協会の

重鎮でストリートフォトグラファーの

生きる伝説的な存在だ。

主に労働階級に当たる中下層階級を

撮り続けていて、

中でもthe last resortの皮肉っぷりは、

物議を醸したが

流石の島国イギリス、

日本人と共通する感性があり、

彼の写真集の中で僕が最も好きなものだ。

ファッション写真も時折手がけ、

最近では確か

グッチのコレクション写真を撮っていた。

そんな彼のサイン会が先日、

オックスフォードサーカス駅に位置する、

ザ フォトグラファーズ ギャラリーで行われた。

東京で言うところの、

東京都写真美術館的な場所で、

さして大きい建物ではない。

生きているうちに(彼が)、

会えるとは思っていなかったし、

そもそも会えるような人ではないので、

イギリスに来てからも、

特段意識はしていなかったのだが、

知人にたまたま教えてもらい、

サインを貰いに行った次第である。

ブルックリンラガー(何故アメリカの銘柄なのかは今だに謎である)を片手に、

割と酔った様な面構えの彼は、

浅草あたりで昼の1時頃から呑んでいる、

職業不明の高齢者に差し掛かった

中年者のそれとあまり変わりがなかったのだが、

僕は緊張のあまり、テーブルに

三つ指をついて彼が書き上げるのを待っていた。

 

 

僕は家宝と呼べるような物を、

あまり持ち合わせていないが、

もし僕が、40年後に松濤辺りの

地下一階から成る三階建の

一戸建てに住んでいたとして、

ひょんな事にお宅訪問系のテレビ番組で

取り上げられることが

あったとしたならば(将来の事は未定であるし、誰にも何も言わすまい)、

間違いなくこれはリポーターに紹介すると思う。

 

 

ロンドン、パリ、ニューヨーク辺りの

都市だと、出会い方はどうであれ、

意外と会いたい人に会えてしまうような気がする。

現に僕もこの2ヶ月弱で、

会いたい人にすでに3人会った。

 

 

話は少し戻って写真についてだが、

僕はスタジオ写真よりも、

スナップ写真を好む。

日本人で言えば、

篠山紀信よりも、

森山大道や、荒木経惟が好きだ。

アラーキーのセンチメンタルな旅は

特に好きで、前回作った写真集も

彼のオマージュ的な雰囲気で作った。

海外の有名どころで言えば、

ブルースウェイバーのように、

作り込んでいく写真よりも、

マーティンをはじめとして、

ジョエルマイロウィッツや、

ソールライターのような、

ストリートスナップでかつ、

色彩が効いているものが好きだ。

 

専門家ではないので、

詳しくはわからないが、

日本人の撮る写真はどちらかというと、

優し過ぎたり、逆に寂し過ぎたり、

景色に既視感がある為、

やけに生々しかったりするのだが、

先ほどあげた彼らの写真にはどこか、

希望があるように見える。

ソールライターの撮る、

本来は悲しげな写真にも、

原色が効いているせいなのか、

街の雰囲気に馴染みが無いせいか、

適度に優しく、眺めていてホッとできるのだ。

僕の業界で言うと、

イッセイの服がそれに当たり、

ヨウジの服が少し寂しげに見えるようにだ。

 

この話は後日詳しくしたいのだが、

いずれにしても、作り込んだものより、

受け手がどう感じるか、

『余白』のあるものが好きなのだ。

酒が入ると決まって

この話をしてしまうのだが、

余白がないものには、やはりそそられない。

この言葉は、『無駄』とか、『含み』と

耳障りは似ているが、全く違うものなのだ。

『空気感の多様性』と置き換えてみると、

少しわかりやすいような気がする。

 

 

なんだか、

最近書いていて思うのだが、

僕は日記を書きたいのに、

自分の思考や理念ばかりになってしまって、

取り留めのない雑記になってしまっている気がしてならない。

ゆくゆく、

日記なのか、書き殴った雑記なのか掴みどことのない

この「翻せ、ベーコンエッグ」を一冊に製本しようと考えているのだが、

これはいくら僕がサインを書いたからといって

誰かの家宝になる日は訪れなそうである。

 

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"カメラの中の3秒間だけ僕らは

突然恋をする そして全てわかるはず

本当のこと何も言わないで別れた

レンズ放り投げて そして全て終わるはず"

 

カメラ!カメラ!カメラ!/フラッパーズギター