ストックホルム退屈日記〜ルージュの伝言〜

ルージュで伝言なんぞ残された日には生きた心地がしないなと思う。

ましてや彼女が自分の母親に会いに電車に乗って向かっているなんて貞子が10人束になってかかっても敵わないくらい恐ろしい。


そんなルージュの伝言が主題歌である、

"魔女の宅急便"のモデルになったスウェーデンストックホルムを訪れた。


仕事を抜きにヨーロッパの他の国を訪れるのは今回が初めてであった。

フクシマさん(学生時代のアルバイト先での同僚である)と、ある種の慰安旅行として訪れた。

最近は仕事に忙殺され、

十分に自由な時間を持てるタイミングがなかった為、今回の旅行は一息つくのに打ってつけのものとなった。

フクシマさんは普段から良い意味で、

ぽわあっとしている為、

変に気を使うこともなく、

気を許せる人との旅行が、

いかに有意義なものかを

改めて認識することとなった。


スウェーデンは生まれてから棺桶に入るまで、

生涯を通して政府が面倒を見てくれる為、

貯金なんかは考えなくていいそうだ。

教育機関、病院等は勿論全て無償である。

それに加えて、週の労働時間は35時間で、

日本と比べて5時間も少ない。

日本では定時で上がれる人の方が稀であろうから、実際はそれ以上の差がある。

その為どこの店も大体17時位には閉じてしまう。

日曜なんかに空いている店は、

むしろ働きすぎではないかと心配してしまうほどだ。

因みにここ最近の僕は、

1人ブラック企業を行なっており、

一日あたり11時間労働の週6日勤務である。

なんてことはないのだが、

肌の調子だけが心配である。

新たにもう1つ美容液を

ローテーションに加えようか思案中である。


話は戻ってストックホルムであるが、

とにかく寒い。

日本では桜が咲いているとの事であったが、

現地は最高気温がマイナス1度ほどであった。

その分暖房設備は盤石であり、

24時間フル稼働だ。

暖房たちが僕を甘やかすものだから、

全くベッドから出られず、

1日の半分を部屋で費やした。

怖くてフクシマさんの方を見られなかった。


料理はなにを食べても外れる事がなかった。

基本的には魚料理であり、鱈のソテー等は、

バターと塩、オリーブに少々のレモン位しか使っていないように思われたが、間違いなく人生で食べた鱈の中で一番美味かった。

日本で湯豆腐に入れられる鱈達を思うと、

居た堪れない気持ちになった。


街並みは僕たちが想像する、

いかにもな北欧調のものではなく、

極めて簡素で、建物自体からは温もりを感じられなかった。

ただ、どの家もペールトーンの配色で、

雪景色によく馴染んでいた。


傷心ブラザーズ(真心ブラザーズのオマージュである。言わせないで欲しい。)である僕らは、とりあえず夕日を見に行こうと、

湖やら海辺やらに足を運んでは、

氷点下の中ただただそこに佇んでいた。

フクシマさんはそこが気に入ったらしく、

その湖の近くに別荘が欲しいとの事で、

何故か将来僕が買うと約束した。

今のところ自分の家すらないのだが。


夕方にややセンチメンタルジャーニーになった僕らであったが、

夕食を摂り、ワインボトルを空ける頃には

全くそんな事も忘れ、

スキップをしながら宿泊先に戻っていた。


朝食用にとスーパーでスモークサーモン、

クリームチーズ、北欧らしい固めのパン(名前があるのだろう)を買い込み、

朝一緒に作ろうと言っていたのだが、

やはり暖房が僕を離してくれず、

やっとの思いで枕から頭を離す決心が着いた頃には、既にサンドウィッチが出来上がっていた。

日本にいる頃からよく僕の家に集まり、

料理を作り(基本的には男性陣が作る)みんなで飲んでいたのだが、

その頃のフクシマさんは何もせずに、

ワインを片手にチーズを齧っていたので、

出来上がったサンドウィッチをみて少々驚いた。

よくよく考えれば、

フクシマさんは自由が丘生まれ、

自由が丘育ち、悪そうな奴以外大体友達(Dragon Ashのオマージュだ。言わせないで欲しい。)の根っからのシティーガールであり、僕みたいな田舎者よりなんでも出来るのである。


電車に乗っていた時であろうか、

僕らももう20代を折り返したし、

今後変わることなんてないのかもしれない、という話を僕がした。

そうすると彼女が、

きっとそんなことはないし、

これからも変わっていくんだと思うよ、と言った。

ロンドンに来てから、

着るものも変わったって言ってたし、

変わる事自体は良いことだと思う、と言う。

確かにそう言われると、

たかが数ヶ月であるが、

僕は変わったのかもしれないなと思う。

ただそこで思うのは、

考え方や大切にしていきたいもの、

変わってしまってはいけないものを、

よりしっかりと持たなくてはいけないという事だ。

着るものや、髪型、話す言語やカーペットの色なんかは別に変わって構わない。

ただ、元素式のように変わらないもの、

変えようがないものをしばしば僕らは変えてしまう。

H2+Oが変わってしまっては水ではなくなってしまうし、僕ではなくなってしまうのだ。

自分の根本であったり、

大切にしている人や事を、

変わらずに、

大切にしていきたいと思う。


僕が変わってしまって、

将来の僕の奥さんに、

口紅で伝言を残されない為にも。


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"人混みに流されて 変わってゆく私を

あなたはときどき 遠くでしかって

あなたは私の 青春そのもの"


卒業写真/荒井由実





二十億光年の孤独

人類は小さな球の上で
眠り起きそして働き
ときどき火星に仲間を欲しがったりする
 
火星人は小さな球の上で
何をしてるか 僕は知らない
(或いは ネリリし キルルし ハララしているか)
しかしときどき地球に仲間を欲しがったりする
それはまったくたしかなことだ


谷川俊太郎作 二十億光年の孤独からの引用だ。

義務教育で習うくらいの詩人しか知らない僕だか、その中でも好きなのは谷川俊太郎だ。

ちょうど最近"二十億光年の孤独"を思い出すような出来事があったのだ。


18歳ブラジル人の話だ。


彼は最近母国の大学に入ったばかりで、

その大学の休暇を利用してこちらに滞在していた。

僕は彼から毎日のように昼食に誘われ、

こちらは仕事があると言っているのにも関わらず、

『ジャパニーズ イズ ナンバーワン』

等とぬかし、ほぼ強引に昼食に連れ出された。

日系のコミュニティが世界一の規模を誇るブラジル生まれの彼であるから、

親日家であってもおかしくは無いのだ。

(おそらく)ロンドンで食せる日本食の中で、

1番うまいところに連れて行って、

寿司を食わせてやったり、

僕の家系の家紋を見せてやったり、

博物館で甲冑を着た武士を見せて、

これうちのじいちゃんなんだよ、

なんて教え込んだ。


法律を学ぶ彼はおそらく良い育ちで、

大きなその瞳には曇りや陰りというものが

一点も伺えなかった。

青年から成人への狭間の危うさを孕んだ、

少しでも傷がつけば死んでしまう薄い殻を纏った蛹のような印象を覚える。

いつも僕のことを気にかけてくれ、

『カズ、しっかり勉強しなきゃだめだよ。絶対君の為になるから。』と、毎日のように言われた。

その度にキットカットを一切れあげた。

少なくとも18歳まではキットカットは有効のようだ。

お礼にとブラジル(厳密にはポルトガルのものだが)の、なんとかというタルトをご馳走してくれた。


出国前日にもその前の週にも送別会を開いてやったのにも関わらず、

『お願いだから出国の日は一緒にご飯食べようよ。』

と言うので、何が食べたいのか聞くと、

ケンタッキーがいいと言う。

最終日にそんなものでいいのか

甚だ疑問であったが、聞くところによると

ブラジルにはケンタッキーが無いらしい。


たかが1ヶ月の間友人であっただけだが、

見送りの際にはなんでだか泣きそうになってしまった。

因みに彼は満面の笑みだった。


彼が帰国して数日してから連絡があった。

将来は僕と一緒に仕事をしたいとの事だった。

法学部卒の人間とどう仕事が出来るか、

今の僕にはわからないが、

悪い気はしなかった。

『もうお母さんにも言ったんだ、そしたらとりあえず大学を卒業してから考えなさいって言われたよ。』

全くその通りだと思う。

あと2.3ヶ月もすれば、

すっかりこんなことは忘れるだろうから、

とりあえず僕が願うのは、

彼の薄い殻が何者かに傷つけられるような事がないといいなと言う事だ。


異国の地で、地球人であり、火星人でもある、僕とジョアオはやはり仲間を求めていたのだろう。

異なる環境下の刺激を求めながら、

それと同時に仲間を探したりするのだ。

これからここが僕の小さな球になるとして、

一体火星はどこになるのだろうか。


最後は谷川俊太郎の中で1番好きな詩を。


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"どっかに行こうと私が言う

どこ行こうかとあなたが言う

ここもいいなと私が言う

ここでもいいねとあなたが言う

言ってるうちに日が暮れて

ここがどこかになっていく"



ここ/谷川俊太郎








The long and country road

1年のうちで2回ある、

最も多忙な時期を今過ごしている。

僕にしては寝食を惜しんで

仕事に勤しんでいる方だと思う。

嘲笑われているのか、

歓迎されているのかわからないが、

ロンドンには、早すぎる春が訪れている。

記録を始めてから、

最も暑い2月になっているらしい。

重苦しいダッフルコートを着なくて済むと思うと晴れ晴れする。


小春日和には決まって、

The BeatlesWhite Album が聴きたくなる。

特にBlackbird。

全然似つかない歌詞なのは重々承知である。


ここまで書いて、ふと気がつく。

特に書くことがないのだ。

仕事に忙殺される恐ろしさを感じる。

漠然とした考えに耽る時間が持てない。

どこぞの偉い人が言うように、

人間は考える藁である為、

考えられない人間はただの藁に過ぎない。

飛べない豚よりもタチが悪い。


25歳を過ぎると人は新しい音楽を

聴かなくなるそうだ。

世のおじさん達が得意げに80年代の曲を

未だに歌い続ける訳はここにある。

25歳というと、

大卒者が社会人になって、

"石の上にも"でお馴染みの3年(なんの根拠もないこの無責任な言葉は大嫌いである)が過ぎる頃であり、仕事にも慣れ、責任のある仕事も任される頃であろう。

冒頭で述べたように、

こうして仕事に忙殺され、

考える余地を与えられない日々を過ごし、

徐々に徐々に新しい音楽を聴かなくなるのだ。

ここでいう音楽はあくまで

指針のひとつであり、

広義で興味関心を失っていくという事だ。

なるべくそうはなりたくないなと思う。


その一方で、真面目に社会人をやっている友人達を羨ましく感じることがある。

僕のように石の上に3年座っていられなかった人間からするとだ。

社会性を著しく欠いているとも思わないし、

新卒採用では割と大きい企業にも内定があった。

その気になれば、

僕だって至って普通に幸せに暮らせていたと思う。

トレインスポッティング

ユアンマクレガーが述べるような、

なんて事のない幸せだ。


しかし思い返せば、

卓球の方が得意なのに

サッカーにのめり込み、

リズム感もないのに

ドラムに文字通り打ち込んだりしていた。

そのうち気が付けば、

特段思い入れもないのに海外で生活している。(やりたかった事がたまたま日本では出来なかっただけである。)

見るからに大変な方を選んでしまうのは

一体どこから始まり、

そしてどこで終わりを迎えるのだろうかと考える。

ただ、僕はこの人生において、

一度たりともあの頃に戻りたいと思った事は無い為、この選択で間違ってはいなかったとも思うのだ。

夢見る少女でいられてしまったタイプの人間なのであろう。


何かの本に書いてあったが、

非凡に憧れる程、平凡な事はないという。

時折平凡さに憧れを覚える僕は非凡であるという事なのであろうか。

きっとそんなに大それた事ではなくて、

僕も非凡に憧れる平凡な人間のひとりなのだ。


もし来世というものがあって、

何になるかを選べるとすれば、

鳩サブレーの御曹司もしくは、

中学でバイオリン職人になることを志し、

イタリアに渡り、日本に置いてきた彼女を

思いながら、カントリーロードを歌う天沢聖司になりたい。

この話は長くなるので、

もし気になった方は是非飲みの場で。



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肉球の様に柔らかい心に触れておくれ

なんていうかテキトーでごめん

もうちょいまともかと思ってたのにな

もうちょっとまともかと思ってたのに”


まともになりたい/カーネーション









お茶しようぜ

"お茶しようぜ"

 

2017年から2018年にかけて、

おそらく最も発した言葉だ。

僕には沢山のティーフレンドがいる。

酒の場よりも、より慎重に、丁寧に、緻密に

きちんと発する言葉を選んで、

やり取りが出来る為、僕は人をよくお茶に誘う。

とりわけその中でも、

圧倒的登場回数を誇るティーフレンドが2人いる。

彼らは僕と同い年で、同じ業界に属しており、仕事仲間であり、良きライバルであり、それ以上に良き友である。

 

この日記を彼らの上司が見ている(と思う)為、変な事は書けないが(そもそも変な事なんてないのだが)、たまに同じエリアに営業に赴いていた際、情報交換も含めて、お茶をしていた。

代々木上原のサボウルが行きつけであった。

サボる場所がサボウル、、、

歳を重ねるにつれ、この手の親父ギャグを好むようになってしまった。

僕らの業界はかなり狭い業界であり、

かつ若手が殆どいない業界であって、

同い年が3人も集まる事などまず無い。

各々に営業スタイルも違えば、

好きな生地、もちろん女性の好みも合わない。

そして、おそらく自分が1番売れると3人ともが思っているはずだ。

少なくても僕はそう思っている、

彼等に負ける訳にはいかないのだ。

 

彼らとの出会いは確か、

2年前の冬であったか。

東京の兄と呼んで慕っている僕の先輩の会社に入ったのが、タロちゃんである。

後にプライベートでも共通の知り合いが

何人かいることが分かり、

すぐに仲良くなった。

彼は全てにおいてストライクゾーンが広い。

詳しく述べることは控えたいと思う。

 

そのタロちゃんに紹介して貰ったのが、

ミカワである。

渋谷の焼き鳥屋で初めて会った彼は、

人見知りで、打ち解けるのに半年くらい掛かった。

後に2人で何度もプリントの仕事を手掛けることになる。

3人の中で1番生地が好きで、

自費で産地を駆け回る様な変なやつだ。

 

約2年弱程、僕らは同じ業界で

時には協力して仕事をしたり、

時にはコンペジターとして戦ったりもした。

この3人がいれば、絶対的な売り上げを持つ洋服のことなんて全く興味のないおじさん達にも勝てる気がしていた。

狭い業界故、

少し噂になったりもしていた位だった。

そんな中で、

先陣を切って僕が抜けてしまい、

昔の教育番組にあったズッコケ三人組的な

僕らは呆気なく解散してしまった。

 

僕の壮行会では、

彼等は次の日も仕事であったのに(もちろん僕もであるが)、

朝まで付き合ってくれた。

あれ、これ言っていいんだっけ。

 

社会人になって、損得勘定、掛け値無しの

友人関係を築けるとは思っていなかった(元より僕は腹黒いので見定めてしまう傾向にある)為、僕は嬉しかった。

 

 

先々週末から、

ミカワがこちらに訪れて来てくれていた。

テキスタイルの展示会をメインに、資料館を回り、営業に同行してもらった。

 

仕事はさておき、

久しぶりに近況を教えあったり、

日本のアパレルはこうで、

生地がああだ、

それに比べて欧米はかくかくだ、などと

ひたすらに話し合った。

因みに今となっては何を話したか全く覚えていない。

それに加え、

カワには数年ぶりに恋人が出来ており、

ボランティア精神旺盛な彼は、

全く聞いてもいないのに

いろんな話を聞かせてくれた。

彼が寝てる間に何度か濡れたタオルを顔においてやろうかと考えた。

 

タロちゃんも来られたら良かったのに、と思う。

さぞかし酷い出張になっただろう。

 

また安い居酒屋で朝まで飲んで、

各々が納期や不良品で苦しんでいるのを横目に

売り上げの自慢をしたり、

巷の女子にも負けない量と質で、

恋愛話をしたいなと思う。

 

互いに手掛けた生地の洋服を

展示会で付け合ったりしたいなと思う。

 

飲みの場で女の子相手に

一斉に生地の話をし始めて

引かれたいなと思う。(いや、思わない、あれは酷かった。)

 

幡ヶ谷のパドラーズで、

代々木のトムズで、

渋谷のローステッドで、

上原のサボウルで、

時にはセブンの100円コーヒーで

 

 

またいつかお茶しようぜ。

 

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“side by side  どこまでも行こう

side by side 気が変わるまで

till no side 取り憑かれたもの同士で

俺は右折 お前は左折

さよなら 寂しくなるぜ side by side “

 

side by side/ペトロール

 

 

パリ退屈日記

この日記はしっかり書きたいと思う。

 

当時大学四年生であった僕は、第一志望の最終面接を受けるべく、

前日の夜から大阪に向かっていた。

着いた途端に具合が悪くなった。

理由は明快で、大阪が合わないのだ。

もちろん面接への緊張があったことは認める。

しかし、大阪に着くといつもこうなるのである。

空気が膨張して胸の辺りを締め付けるような圧迫感と、

理由のよくわからない焦燥感に駆られる。

結局僕は、この会社に入る事を選ばなかった。

 

確か小学四年生の頃であった。

祖母と母、僕の三人で大阪に遊びに行った事があった。

そこで僕が見たものは、道頓堀あたりにたむろっている浮浪者や、

険しい顔をして駆けていく赤いピールを履いた若い女性、

威圧的に話す(そう聞こえただけだが)タクシーの運転手だった。

また、テーマパークのチューブ型のジェットコースターだった。

当時の僕にはこのジェットコースターに乗ってしまえば、

2度と出られないような気がしたのだ。

僕の祖母は浮浪者等を見ると五千円くらいあげてしまう人だった為、

たくさんの浮浪者を見て居た堪れない顔していた。

祖母の不安げな顔を見た僕は、

水の中に暗い緑色の絵の具を垂らしたように、

あっさりと同調していった。

その直後に僕らはうどん屋に入って、

僕はきつねうどんを頼んだ。

3分で茹で上がる簡易の麺に、油揚げと1片のかまぼこが

質素に乗っていた事を覚えている。

 

 

その後僕らは予定していた飛行機で帰る事が出来なくなった。

理由が思い出せないのだが、飛行機の欠航か何かだったと思う。

その夜はビジネスホテルに泊まる事になるのだが、

慣れない土地で動揺していた僕は、悪い夢を見てうなされていた。

アニメのコナンの夢を見ていたのだが(なぜここまで覚えているのか僕にもよく分からない)、要するに人が死ぬ夢を見ていたのだ。

その夜、自宅で待つ父に電話をした事もよく覚えている。

今考えると、大阪へのある種の拒否反応はこの時から始まっていたのだと思う。

 

仕事でも何度か大阪は訪れているのだが、

毎回、他の出張先に比べてもかなり疲弊してしまうし、気が立ってしまう。

大阪が大阪である事を自覚していて、その他のものをピンセットで

しっかりと分別しているのだと思う。

僕はそのつままれている感覚をどうしても感じてしまうのだ。

 

今回の訪問でパリは3度目となる。

3回とも同様に前述した大阪に行った際の心持ちになってしまった。

パリもパリで自身がパリである事をはっきりと自覚していて、

やはり僕はつままれてしまう。

肌に合っていないのだなと思う。

今回訪れた国でいうと、ベルリンにはその感じを覚えなかった。

 

 

今回パリでは、世界で一番大きい生地の展示会に行った。

今回の出張的な旅行の最大の目的である。

仕事の詳しいことは述べてもつまらないので割愛するが、

はっきりと今僕がやってゆこうとしている事が、

いかに難しくて、どれだけ僕が小さいのかを自覚する事が出来た。

作る物や仕事の質については、全く問題視していない。

そうではなくて、多すぎるのだ。

服が世の中に多すぎる事は見ての通りだが、

その供給過多の洋服よりも生地がありふれているのだ。

よく考えてみれば、それはそのはずである。

洋服は生地がなかれば作る事が出来ない訳であるから。

そんな中で、僕一人が海外に飛び込んで、

何かできる事があるのだろうかと感じた。

多分何もないと思う。

悲観的になっている訳ではなく、

あくまで客観的に観てだ。

 

次の日(今日であるが)、マレ地区と呼ばれる

セレクトショップやブランドのお店が集まったいわゆる

おしゃれ(好きな言葉ではない)な場所を回った。

そこで、僕が好きなブランドの服を見た。

別に日本でも見られるブランドなのだが、

妙に今日はそれらを見て興奮した。

どうしても絶対に彼らに生地を使って貰いたいと思う。

僕は彼らの作る服が好きだ。

僕に何ができる訳でもないけれど、

その気持ちがあったなと思い出した。

おそらくこれだけは他の人よりも強いと思う。

久しぶりに初心のようなものを感じ、

昨日ボコボコにされた反動もあって、

今僕は、攻撃的な感情を持ち合わせたやる気に溢れている。

 

そして今回の旅行で思った事は、

ロンドンの次がもしあるとするならば、

ベルリンに住みたいという事だ。

感覚的なものなので説明できないが、

間違いなくいい街だと思う。

ここでは鋭利な意志を良くも悪くも感じる事が出来た。

だけれど、おそらく、なぜだか、

僕の意志とは全く別の物の働きかけによって、

パリに住む事になりそうな予感も今回の出張で感じた。

初めの方から日記を読んでくれている人なら分かる(はずの)

”抗えない大きな流れ”の一つとして。

 

 

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”夢にまでみたフランス 凱旋門をくぐって 巴里

目指すはモンマルトル パリジャンと待ち合わせ

 

冷めたブレンド尻目に カフェラテの泡にうずもれて

いつ別れを切り出そうか 煙草で占ってた

 

206番来たから とりあえず後ろに座った

バス巴里まで飛んでゆけ ラララ シャンゼリゼ

 

京都の大学生/くるり

 

 

 

 

アムステルダム退屈日記

ノラジョーンズやキャットパワーが似合う街だったように思う。

機内から望む夕日のせいか。

 

実質1日しか滞在しなかった

アムステルダムであるが、

何故か哀愁を感じずにはいられなかった。

当時勤めていた花屋の店長の兄が

アムステルダムに住んでいると

聞いた位にしか僕の人生で関わりのない街で

あるはずなのに。

基本的にノスタルジックに浸る事を

好む傾向にあるので、

きっとそのせいであろう。

 

ただ、アムステルダムに住みたい

なんて思っていた事もあったのは事実で、

実際に赴いてみて、

そうは思えなかった事に

少し悲しんでいるのかもしれない。

クラスでそこそこに仲の良かった友人が

転校していく感覚に似ているなと思う。

僕の生活に何も影響は与えないが、

でも確かに僕の下から何か決定的なものが

除外されたのだ。

 

アムステルダムでの目的は

テキスタイルミュージアムに行く事だった。

ここには織機や研究所が併設されており、

実際に生地を生産している。

オランダの繊維業は日本同様に、

縮小に向かっており、

潰れた工場の職人たちを再雇用している。

日本に優る技術は正直全くなかったが、

それでも色、柄の表現、展示方法など

アウトルックの面では非常に参考になった。

 

昨日の午後にアムステルダム入り、

駒込六義園ほどの大きさ(感覚的に)の街を散策した。立ち寄った国立美術館では、

色、タッチ共に力強い作品を観た。

あまり僕の好みではなかった為、

作家の名前も覚えていない。

 

オランダにどんな料理があるかも

よくわかっていなかったので、

宿場近くのレストランで

適当に済ませた。

昼過ぎのまるい空気感のある街が、

夜になると大麻が合法であるせいか、

ぬるい空気感に微妙に変化する。

どちらにせよ、

確信的なものに欠ける雰囲気だった。

 

そして今僕はパリに向かっている。

今回の出張的な旅行、旅行的な出張の

最大の目的地である。

あまり得意な街ではないが、

僕の仕事、そして僕自身にとって

大きなものの1つが動き出したり、

或いは絶対的に取り返せないものに

何かが変わって行く様な気がしている。

 

パリでは友人の実家に泊めてもらうのだが、

彼女は今ロンドンにいる為、

彼女の父が出迎えてくれる手筈になっている。

しっかり言えるだろうか、

"コモタレブゥ~"

 

 

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"思い違いは空の彼方  さよならだけの人生か

ほんの少しの未来は  見えたのにさよならなんだ

例えば緩い幸せが  だらっと続いたとする

きっと悪い種が芽を出して  さよならなんだ"

 

 

ソラニン/ASIAN KUNG-FU GENERATION

ベルリン退屈日記

只今、ベルリン上空、

アムステルダムに向かっているところだ。

両耳にはめたイヤホンからは

美空のひばりの姉さんの

『人生一路』が流れている。

一度決めたら、2度とは変えぬ、と来たもんだ。

 

34日、実働2日のベルリンを

終えた感想としては、

『ベルリンめっちゃ良い、、。』

であった。

仕事の要件もそこそこに、

自分には土日だしと言い聞かせ、

観光に時間を割いた。

まず着いた瞬間から、

イギリスでは感じられない雰囲気があり、

その原因は建物の外観と、

連なる店舗のフォントにあった。

ヴィクトリア様式の建物、

タイムズニューロマンに代表されるような

いかにも英国というような字体に対し、

ベルリンではヒトラー時代に

ヴィクトリア建築が取り壊され(確か。)

簡素化されており、

味も素っ気もない建物が連なる。

フォントもヘルヴェチカと

インパクトの間のような

(きっと名前があるのだろう)

こちらもやはり簡素な仕上がりになっていた。

完全に僕好みである。

 

重工業で栄えた

"いかにもドイツ"というような

重厚な煉瓦造りの建物もまだ残っているが、

一方で、バウハウスの影響を受けている

家具や照明、建物も伺うことが出来た。

機能的で、華美な装飾がなく、

柳宗理が言うところの'野球のボール(頭痛が痛いの様な響きである。)や、ピッケルの様な

機能美を備えたものが随所に見受けられるのだ。

ドイツといえばブラウン社、ディーターラムスという感覚があったのだが、本国ドイツでは全く見なかった。

おそらくこちらでも電気シェーバー位しか扱っていないのであろう。

ハーマンミラーイームズを腐らせた様に。

 

昨日はそのバウハウスに行ったのだが、

行きの電車で今回一緒に回っている"ミカワ"が、

切符のスタンプの押し忘れで(そういうルールがあるのだ)

60ユーロの罰金を取られた。

仕事では非常に心強い仲間なのだが、

この時のミカワは完全にビビっていた、

そして御立腹のご様子であった。

そんな彼を横目に僕はバウハウス

しっかり楽しめた。

着いた時間もあり、

全ては回りきれなかったのだが

メインどころのクラブチェアB3や、

Marianne Brandt のランプや、

マスターズハウスは見ることが出来た。

もちろんバウハウスは文献も関連書籍も

かなりの量が出ている為、日本に居ながら

大体を把握する事は可能だが、

それよりも、黒い権力争いや、

男尊女卑的観念からの脱却など、

当時の歴史的背景をバウハウスの中からも

垣間見えた点が、足を運んだ甲斐があった点であろう。

 

ベルリンといえばクラブシーンも有名だが、

今回はタイミングが悪く、ベルクハインも、

トレジャーも行けずじまいで終わってしまったのが心残りである。

 

ドイツ料理は殆どが肉とポテト、かパスタであるが、美味かった。

日本のラガーに似ている

ピルスナー系のビールもやはり飲みやすく、物価も安いこともあり、

安心してメニューを伺えた。

 

感覚的にしかもちろん分からないが、

おそらく僕がロンドンの次に住むとすれば、

ベルリンな気がした。というか住みたい。

なんて言いながら、

次のアムステルダム

素敵だったりして。

 

*ロンドン在住日本人が3万人に対して、

ベルリンは3700人だそうだ。

 

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Is as little design as possible – Less, but better –

ディーターラムス良いデザインの10か条より