滑走路の赤色の灯が、右翼に吸い込まれては、また反対側から現れる。
単調なリズムを急かす様に、前の座席の子供が泣き声を強める。
赤い点で在ったものが線に代わり、遂には窓枠から消える。
鮮やかだった光が消滅して見えなくなる。
フィレンツェで4日間ほど過ごし、
現在僕はボローニャ空港からロンドンへの飛行機の中である。
時刻は午後9時半。
目立ちたくて仕方のない太陽がやっと沈みかけている。
もう少し年間を通して、平均的に出てくれるとありがたいのだが。
夏が来る気配のないロンドンに比べ、
フィレンツェは熱気と湿気に溢れ返っていた。
粘りっ気のある黒めなR&Bがよく似合う。
今回が初めてのイタリアだったのだが、
出張という事もあって、夜と最終日以外は仕事である。
リサーチの為に、ピッティウオモと呼ばれるメーカーの合同展示会を訪れた。
紳士服好きには憧れの場所であって、
各人思い思いの一張羅で参加する。
日中の気温は35度を超える中、
ジャケットにネクタイをバシッと決めている。
昔はそれこそ僕にだってピッティへの憧れはあったのだが、
いざ来てみると酷暑のせいでそれどころでは無い。
ジャケットもタイも締めずの参加となった。
そもそもファッションというものは、
基本的な条件として環境に準じているべきであるし、
TPOにそぐわない衣装はかえってダサいのでは。
というのが僕の持論だ。
条件のないのものに自由は無く、
制限のない中に創造はないのである。
最終日に日本のブランドのデザイナーさんと話す機会があった。
彼はかなりストイックな物作りをする方で、
生地に対しても造詣が深い。
話している中で、どういう生地屋と付き合っているのかと尋ねた。
すると彼は”洋服が好きな人が自然と残っていったかな”という。
これには僕も同感で、買い手の考えている事や物が同等、
もしくはそれ以上に売り手が好きでなければいけないと思う。
もちろん仕事をする上で、必須では無いので、
これが無くても仕事は出来るし、ほかのやり方で売る事も出来る。
ただ、どうせやるなら好きな事の方がいいし、
好きなもの同士で仕事が出来た方が健全ではないか。
これは単に仕事だけでは無く、
人間関係においても大事な事では無いのかと思う。
今回の出張で強く思った事は、感性は鈍る、という事だ。
正直今回どこのブランドのジャケットを見ても、
僕にはほとんど同じに見えた。
アイドルの顔がみんな同じに見えるアレと同じ現象である。
これはなぜ起こるかといえば、無論関心の消失が原因だ。
要するに感性を形成する上で、関心は必要不可欠なのである。
僕の仕事には少しばかり感性が必要になるタイミングがあり、
かつクライアントの感性にも同調する適応性が必要で、
僕がクライアントに関心が無くなれば、僕の仕事も半分位無くなる。
その為僕が、同じに見えてしまったブランドに提案したところで、
採用はされないだろう。
勿論経験というスキルが人にはあるから、
感性を失っても経験で補える点も多々ある。
しかし経験からの産物は、過去の反芻でしか無く、
新しいものを生み出す事はない。
関心がなくなり、知ろうとせず、経験だけでこなそうとすると、
いつかついて行けなくなるのだ。
これが怖いなと思う。
そしてこれも対人関係においても言えるのではないかと思うのである。
自分の話ばかりするおじさんが総じて仕事が出来ないかというと、
全くそうは思わないが、話を聞けるおじさんは総じて仕事が出来る。
相手に興味があってこその関係性であり、
一方的な顕示欲は個人的なものに過ぎないのだ。
俺は大丈夫だと思っているそこのおじさん!(僕を含めなのが辛い)
自分では気付いていないだけですよ。
日常の事を綴ろうと思っているのに、
どうも熱っぽい話になってしまうのは、
僕もおじさんになりつつある証拠なのであろう。
"ちょっと緩やかに だいぶ柔らかに
かなり確実に違ってゆくだろう
崩れてゆくのが わかってたんだろ
どこか変だなと思ってたんだろ"
世界の終わり/ミッシェル ガン エレファント