8キロ圏内

やたらと語尾にアクセントを付けたがる国、

イタリアはミラノにいる。

もう少し詳しく伝えると、

両親と相部屋の、

シングルベッドの3分の2くらいの、

エクストラベッドの

ノリの効きすぎたシーツの上にいる。


先週の中頃から、

両親が僕の元を訪れており、

せっかくのヨーロッパということもあり、

ロンドンついでにミラノにも来た次第である。


毎日2万歩も歩かされていると、

100歩にひとつは

愚痴をこぼしていた両親だが、

恐らく僕も歳になれば、

そうなるのだろう。

まだ愚痴をこぼせるだけましな方か。


僕自身もミラノは初めてで、

印象としては、

観光地の割には無闇に広く、

訪れるべきところが点在しているため、

予定の組み方が難しいと言ったところだろうか。

そもそも前準備という能力が、

首が座っていない頃から欠如している為、

中々にけったいであった。

ミラノ出身の友人が

たまたまいた事もあって、

行く場所に困らなかったのが幸いであった。


もう1つは街に全く生活感がない事である。

僕らがホテルに泊まっているから、

という事もあるが、

街を走る自転車くらいの速度の路面電車

まだ主要な交通手段として機能している点、

観光業が主な収入源になっている点が、

そう思わせるのであろう。

京都の様に、全てがオーガナイズされ過ぎて、生活感がないのとは異なり、

全てが発展していないのである。

もう少し正しく言えば、

施しが行き届いていない印象だ。

それが故の哀愁は感じるのだが。

ビートルズthe long and winding road がぴったりだった。


さて、今回両親がヨーロッパを訪れた理由は

紛れもなく僕に会いに来たからであって、

もちろん場所はどこでもよかったのだろう。

ラルフローレンはどこだとか、

コーチのカバンが欲しいとか、

レイバンのサングラスを探しているだとか、

ナイキのスニーカーが欲しいとか、

アメリカ文化の根深さに、

怖さすら覚えた。

脱線したが、僕に会いに来たわけだ。

要するに僕がどの様な生活をして、

何を口にして、誰と過ごし、

何を学んでいるのか、

その様なことを見に来たわけである。

この1週間であらかたの事は

分かってもらえたのではないかと思う。


幼稚園のお遊戯会が、

日本国外に広がった様なものだ。


そのミラノの友人に教えてもらった、

ピザ屋で食事を済ませ、

ヨーロッパ特有の茜色の夕日に

深い紫色をした雲を背景に、

暑く淀んだ空気の中、

僕はこれは一種の卒業式だなと思った。


東京に出てきた18歳の頃よりも、

明確に、強く、鮮明に、

僕は卒業したのだ。

恐らく彼らも同じ様に感じたと思う。

言語も文化も生活様式も違う場所で、

さほど思い詰める事もなく、

暮らす息子を見てそう感じたと思う。


僕の経験から言えば、

生活の殆どが8キロ圏内で済んでいる人達は幸福度が高い。

都心に出てきて齷齪働くよりも、

地元に腰を据えて暮らしている人々の方が、

豊かに見えるのはそのせいだ。

郊外から1時間半もかけて、

出勤する必要もなければ、

枠の取れない保育園に、

高い金を払って預ける必要のない生活だ。


今回の旅行で彼らは8キロどころか、

1万キロくらい離れている場所で、

1週間を過ごした。

ここに彼らの幸福は無い。

もしかすると僕にも無い。

ただ僕はある程度今の生活に、

馴染んでいるし、

日本食すら恋しくは無い。

もしかすると、

僕はロンドンに

8キロ圏内を見いだせるかもしれないのだ。


ただ、これは物理的に、

言葉として説明できる範囲であって、

アメリカ文化と同様、

意図しない所では、

1つとして卒業出来ない訳だ。

考えても思い付かない事から、

決別する事は到底無理な話だ。

しかし根底で繋がっている部分があって、

その性格を持ち合わせた僕が、

ロンドンで暮らせている訳だから、

彼らが持っている元来の性格が、

他の国では特異かと言えば、

勿論そうではない。

行く場所行く場所で、

日本人の良さを話しに聞くし、

寧ろ彼等は自身に誇りを持つべきだ。


よく都会の人(実際には殆どが地方出身な訳であるが)

地方を卑下する事があるが、

到底馬鹿げた話だ。

海外に来てまで、

日本人とだけつるみ、

日本食を食べて、

日本の様な暮らしをしている、

救いようの無い人もいる。


"都心に居る""海外で暮らしている"という

自分は多数派では無いという

陳腐なプライドを持ち、

少数派に甘んじて、

単数派になり切れない、

箸にも棒にもかからない様な人間より、

彼等色の8キロ圏内に、

住み続けている人の方が素敵ではないか。

英語が話せないからとか、

田舎者だからとか、

そういった事で窮屈を感じる必要はないし、

この8キロを知らない人々の方が、

よっぽど可哀想であると思った方がいい。


ただ、"僕らの世代"

と言ってもいいとは思うのだが、

この8キロ圏内を何箇所か

持てる時代に僕らは生きている。

ひとつに留まっているのも悪くはないが、せっかくならば

多いに越した事はないし、

まだまだ流暢に話せる訳でもない、

僕がいうのもなんだが、

世界公用語としての、

英語を話せないのは、

機会損失でしかない。

英語が話せるのがメリットではなくて、

英語が話せないのがデメリットなのだ。


アメリカ文化に順応する日本は、

もうとっくに終わっているし、

世界市民として、

誰とでも対等に生きなければならない時代に

僕らは命を受けた事は、

紛れも無い事実なのである。

ジミヘンドリックスの言葉を借りれば、

"愛国心を持つなら地球に持て、

魂を国家に管理させるな!"

である。


余談であるが、

イタリア人女性が強いというのは、

前々から聞いていたが、

いざ対面してみて思った事は、

ただ他人にリスペクトが

無いだけなのではないか。

と、今回のミラノ旅行で感じた。

勿論、一般的なイタリア人女性、

かつ個人的な感想であるのだが。



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"俺達の怒りどこへ向かうべきなのか

これからは何が俺を縛り付けるのだろう

あと何度自分自身卒業すれば

本当の自分にたどりつけるのだろう"


卒業/尾崎豊