今年の書き初めは"割愛"にした。
思ったより4割くらいか細い字で、
左に斜行してしまった。
決意と呼ぶには程遠い字であった。
僕は割愛という言葉が好きで、
元来、惜しみながらも思い切って捨てるという意味だ。
なぜこの字にしたかというと、
昨年が蓄えた年に思えたからだ。
無論、脂肪の事ではない。(いささかそれも蓄え過ぎた気もするが)
流行り病が始まって規制されたのは、
物理的な行動ではなく、
真に抑制されたものは言論や感性の類だと思う。
"叩く"という言葉が横行し、
ほぼ無差別に熱を感知した箇所を叩きのめしていった。
僕にそれは意志を持ったアメーバを思い起こさせる。
多様性を重んじようとする流れの中で、
明らかに矛盾した形で均一化が進んでいった。
この前友人と話していて、
1人が今は"NOパンク時代"だと言った。
その通りだと思う。
はみ出たものはアメーバに嗅ぎつけられて、
瞬く間に飲み込まれる。跡形もなく。
人種や性別を慮るが為に、
007の主人公が黒人女性になったり、
ヨーロッパの旧時代ものにアジア人が登場するなど、辻褄の合わないことが起きている。
プラスチックを減らすという大義名分のもと、紙を大量に消費している。
10年ほど前は森林伐採が良くないと、
ペーパーレスを進めていたはずだが、
あれはどこに行ってしまったのか。
こういうことに疲れて、
なるべく感情を揺さぶられないようにと、
映画やメッセージ性の強い展示なんかを意図的に避けてきた数年間だった。
すると自然と自分の中に消化出来ない、或いはする気のない感情や意見、その他様々なものが蓄積していくのだった。
それらを今年は淘汰して、
割愛していく年にしたいなと思う。
捨てる機会を逃したくたびれたタオルケットのような、
ただただ嵩張るものたちを仕分けて、
改めて自分の容量を空ける作業である。
人と話すこと、新しいものを見ること、聴くこと、赴いて体験すること、そういう事に時間を割くことで、新たに何かを入れることで溜まっていたものを手放していく、整理していくというのが、僕の意図する割愛である。
この1年を通して残ったものが、
今後一生大切に出来る、
そんなものになるといいなと思いながら、
今日6個目の切り餅を頬張っている。
残っていたティラミスも食べた、
昨日作ったこれまた残りの角煮も平らげた、
ふと間接視野で捉えたポテトチップの、
以下割愛。
"どれ程 目をこらしたなら明日が見えるのだろ
僕にもわからないけど 信じていたい
誰かをせめちゃいけない もちろん君自身も
何かが狂っただけさ よくあることさ
せめて君の夢が かなうよう
僕は唄い続ける この唄を"
夜明け/松山千春